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劇場版『スター・トレック』を生んだ特撮スタッフの奮闘と彼らが残したもの 前編

(c)Photofest / Getty Images

劇場版『スター・トレック』を生んだ特撮スタッフの奮闘と彼らが残したもの 前編

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ジョン・ダイクストラへの打診



 パラマウントは次なる候補として、『スター・ウォーズ』のスペシャル・フォトグラフィック・エフェクト・スーパーバイザーを務めたジョン・ダイクストラを選んだ。


 ダイクストラは、かつてトランブル・フィルム・エフェクト社で働いており、トランブルの初監督作品『サイレント・ランニング』(72)において、トランブルやユーリシッチと共に視覚効果を指揮した経験があった。この時の実績から、ジョージ・ルーカスがトランブルに『スター・ウォーズ』の視覚効果を依頼しに来た時、代わりとして推薦された経緯がある。


『サイレント・ランニング』予告


 実は『スター・ウォーズ』当時、ダイクストラは失業状態だった。彼は1973年より、カリフォルニア大学バークレー校のIURD(Institute of Urban and Regional Development)に所属し、都市景観シミュレーションのためのモデルスコープの開発(*10)を行っていた。これは、ペリスコープレンズ(*11)を付けた16mmフィルムカメラを、DECのミニコンピューターPDP-11を用いてモーションコントロールし、都市の模型を撮影するシステムであった。これによって、ビル群のミニチュアの隙間にカメラを入れ、人や車の視点で移動させることで、景観の変化がリアルに実感できるというアイデアだ。だが間もなく資金が尽きてしまい、研究は中断となってしまったのだ。


 だからダイクストラは、このモーションコントロールカメラのアイデアが『スター・ウォーズ』で実現できると考えたのだろう。そして実際、『スター・ウォーズ』のためにロサンゼルス郊外のヴァン・ナイズにある古い倉庫に、ILMという工房を1975年に設立する。ここに集められたスタッフには、IURDのメンバーだったアル・ミラーの他、ロバート・エイブル&アソシエイツ(以下RA&A)という会社でCM向けにモーションコントロールカメラを開発していた、リチャード・アレキサンダーとリチャード・エドランドもいたが、そのほとんどが長編映画未経験だった。


 そして「ダイクストラフレックス」(Dykstraflex)と名付けられた、モーションコントロールカメラの開発がスタートする。従来のシステムが、直線移動や単純な回転運動を基本としたシンプルなものだったのに対し、ドリー、クレーン、ジンバルを組み合わせて複雑な三次曲線運動を可能にする設計だった。また、画質を荒らさないための35mm 8Pフィルムのビスタビジョン方式の採用を決めた。そのため50年代に製造されたままになっている、古いビスタビジョンカメラやオプチカルプリンターを購入して、これらを組み合わせて改造し、最新システムとして復活させることになる。


 しかし、まったく新しい制作スタイルや機材の開発と、フィルムの撮影を同時進行させることは難しい。機材が完成しなければ、撮れるショットもわずかになってしまうからだ。ILMの状況を監視している20世紀フォックス側にしてみれば、待たされている間のスタッフたちは、ただ遊んでいるように見えてしまう。さらに、スタッフのほとんどがハリウッドのユニオンに属していないことから、その作業にも制限が加わってしまう。


 そしてルーカスたちが、英国のシェパートン・スタジオでの実写場面の撮影を終えて帰国した段階で、ILMはまだ1ショットしか完成させていなかった。そのためプロダクション・スーパーバイザーとして、ルーカスからILMに送り込まれたジョージ・マザーは、ダイクストラの解雇を主張した。だが何とかシステムが稼働し始め、映画は当初予定の1ヵ月遅れで公開できた。


 『スター・ウォーズ』は記録的な大ヒットとなったが、ダイクストラはILMスタッフを食べさせていかなくてはならない。そこにユニバーサルから、SFテレビシリーズ『Star Worlds』(後に『宇宙空母ギャラクティカ』と改題)の特撮制作の依頼が舞い込む。だが、『スター・ウォーズ』のために開発された機材を用いたことにルーカスが怒り、さらに様々な要因が絡んで訴訟合戦が始まってしまう。


『宇宙空母ギャラクティカ』予告


 そして、もともと折り合いの悪かったダイクストラとルーカスは袂を分かち、ダイクストラはこれまでILMと名乗っていた工房を、自身のVFXプロダクション「アポジー」と改名した。一方ルーカスは、忠誠を誓うメンバーだけを連れてサンフランシスコに拠点を移し、“新ILM”の設立準備を開始する。


 パラマウントが『スター・トレック』の仕事を打診したのは、アポジーが軌道に乗り始めたころだったが、すでに先客がいた。それは、当時アーサー・ペンの監督で進められていた『アルタード・ステーツ』のプロジェクトで、アポジーはこの準備で忙しく、結局ダイクストラも『スター・トレック』の依頼を断った。


*10 このプロジェクトに参加していたジェリー・ジェフレスは、『未知との遭遇』でモーションコントロールカメラの開発を担当している。その後ジェフレスは新ILMに参加した。


*11 潜水艦の潜望鏡を上下逆にしたような形状をしたレンズで、狭い隙間に入り込んで超ローアングルでの撮影を可能にするもの。



続く候補ロバート・エイブル&アソシエイツ(RA&A)



 そこでパラマウントは第3の選択肢として、トランブルが推薦したRA&Aに仕事を依頼した。RA&Aはこの映画のために、子会社のアストラ・イメージ・コーポレーションを設立し、「Star Trek: Phase II」の中止で一度降ろされていたマジカム(*12)と組んで、万全の態勢で取り組んだ。


 しかし先に結論を書いてしまうと、RA&Aは途中で『スター・トレック』から降ろされ、アストラ・イメージは閉鎖されてしまう。これまで報じられたこの問題に関する記事では、RA&Aに長編映画の経験がなく、実現性が薄いシステムの開発に対し、無駄に予算と時間を費やしてしまったことが原因だとされてきた。だがこれは、あまりにも一方的な見方である。


 その理由はRA&A設立の経緯に関係している。この会社は、ドキュメンタリー映画監督を務めていたロバート・エイブルと、『2001年宇宙の旅』(68)でスペシャル・フォトグラフィック・エフェクト・スーパーバイザーを務めていたコン・ペダーソンが設立したプロダクションである。つまりバリバリの長編映画経験者だったのだ。


*12 マジカムが独自開発した合成システムは、あくまでもビデオ撮影用であった。そのため本作では使用されず、同社はミニチュアの制作に専念している。



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