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『ひとよ』静の暴力、愛の体温――白石和彌の新境地は「家族映画」を刷新する

『ひとよ』静の暴力、愛の体温――白石和彌の新境地は「家族映画」を刷新する

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役として「生き始める」瞬間を引き出す構造



 ここからは本作の「物語」「演技」「演出」の面白さについて紹介していくが、その前に構造面の特異性について少し触れたい。


 魅力的な映画は、ざっくり2種類に分けられる。「特化型」と「総合型」だ。特化型は、例えば『ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日』(12)や『モンスター』(03)のように、映像や演技が突出しているもの。アカデミー賞で俳優賞や技術賞にノミネートされるタイプの映画だ。総合型はその逆で、作品賞にノミネートされるようなバランスの良い作品を指す。


 白石和彌監督の作品であれば、『凶悪』や『日本で一番悪い奴ら』(16)、『孤狼の血』は特化型、『彼女がその名を知らない鳥たち』や『牝猫たち』(17)は総合型といえるだろうか。もちろんどの作品も素晴らしい俳優陣で埋め尽くされているのだが、作品全体のテイストがキャラクターで引っ張るのか、ストーリーで引っ張るのか、どちらに重点を置いているのかで決まる。




 ここで『ひとよ』だが、本作は白石作品の中でもかなり珍しいタイプだ。特化型と総合型の中間地点にいる。基本的には総合型なのだが、要所要所で特化型の雰囲気を醸し出し、クライマックスでは完璧に特化型へと変わる。ストーリーをキャラクターが上回ってしまう瞬間が幾度か起こり、その都度作品の静と動が逆転するのだ。つまり、物語を動かす役割を各キャラクターがきっちりとこなしながらも、時折パワーバランスが崩れるという“事件”が起こるということ。


 ただ、これは役者の暴走であるとかではなく、彼らのリミッターが外れてもいいように、或いはリミッターを外さなければならないように、物語の要所要所にエアポケットのような余白が設置されている、といった印象だ。役者をけしかける、或いは誘い込む、とでも言えばよいのか、役と役者が同期して必要以上の力が入ってしまう瞬間を、意図的に作り出しているように感じる。


 これが観客の涙腺を刺激するエモーションの引き金にもなっており、白石監督の確信犯的な狙いをうかがわせる。演技がキャラクターの感情の「再現」ではなく、その場で生成された役者自身の「即興」でもなく、全てが複合的に組み合わさったうえで「セリフの肉体化+感情の具現化」が規定値を突破する――。役=役者の想いがほとばしり、“生き始めてしまう”瞬間を実に見事にとらえている。




 枠組みをはみ出す演技の許容――ほぼアドリブで構成された北川悦吏子監督作『ハルフウェイ』(09)や、役者自身が紡ぐ言葉を脚本に取り入れた是枝監督作『そして父になる』(13)とは異なり、主軸は脚本上のセリフに置きながらも「超える」瞬間を待ち望む、そんな“親心”のようなものが、『ひとよ』にはある。役者がセリフを噛んでも、その際の感情を優先して採用した(ように見える)大森立嗣監督作『まほろ駅前多田便利軒』(11)のアプローチにも近い。だが、全編にわたって、しかも意図的に設計に組み込まれた映画はまれだろう。



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