※2019年11月記事掲載時の情報です。
Index
- 鬼門にも新境地にもなりうる「家族映画」
- 役として「生き始める」瞬間を引き出す構造
- 家族映画のドラマ性を強める「我慢」という負荷
- 「間違っているのに正しい」母親像を体現した田中裕子
- 物語性を付加させる「汚し」
鬼門にも新境地にもなりうる「家族映画」
2012年、英国映画協会(BFI)が発行する「Sight & Sound」誌において、世界の映画監督358人が選ぶ「最も優れた映画」に選出された『東京物語』(53)。第69回カンヌ国際映画祭で「ある視点」部門の審査員賞に輝いた『淵に立つ』(16)。第71回カンヌ映画祭でパルムドールを受賞した『万引き家族』(18)……。日本映画において「家族映画」は、独特の「風格」と「凄み」を持つ。
『トウキョウソナタ』(08)で第61回カンヌ国際映画祭の「ある視点部門」審査員賞を受賞した黒沢清監督も、家族映画を製作するにあたって覚悟が必要だった、と語っている。多くの映画製作者にとって、生半可な気持ちでは挑んではならない、と思わせてしまうジャンル――それが「家族映画」なのだろう。監督生命を脅かしかねない鬼門であり、キャリアにおける新境地にもなりうる「危険性」と「可能性」が同居している。
『凶悪』(13)、『彼女がその名を知らない鳥たち』(17)、『孤狼の血』(18)など、人間の劣情と熱情の極致を描き続ける名匠、白石和彌監督による最新作『ひとよ』(19)からも、家族映画に挑む、果てしないほどの気概がひしひしと伝わってくる。先ほどの「鬼門」と「新境地」の話でいえば、本作は間違いなく彼の新たな代表作となるだろう。紛うことなき傑作――そう呼ぶにふさわしい、無二の輝きを放っている。
『ひとよ』の舞台は、地方都市の小さなタクシー会社。経営者である夫の暴力から幼い子どもたちを守るため、妻はある雨の夜、彼をひき殺してしまう。予期せぬ事態にパニックに陥る子どもたちを残し、彼女は1人、全ての業を引き受けて去っていく。「15年後に戻ってくる」との言葉を残して……。そして現代。事件によって人生を捻じ曲げられてしまった子どもたちのもとに、刑期を終えた母が帰ってくる。この再会がもたらすのは、光か、闇か。
壊れてしまった家族を演じるのは、母親のこはる役に田中裕子、長男の大樹役に鈴木亮平、次男の雄二役に佐藤健、末っ子の園子役に松岡茉優の4人。人気と実力を兼ね備えた役者陣だが、中でも田中が体現する「間違っているのに正しい」母親像が圧倒的だ。共演者たちの多くが彼女との“手合わせ”を切望し、オファーを受けたというエピソードもさもありなん、といった堂々たる存在感で、物語の「テンポ」と「感情」を力強くけん引している。