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『ひとよ』静の暴力、愛の体温――白石和彌の新境地は「家族映画」を刷新する

『ひとよ』静の暴力、愛の体温――白石和彌の新境地は「家族映画」を刷新する

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家族映画のドラマ性を強める「我慢」という負荷



 役者が役とシンクロし、脚本や作品の「枠」を超えて動き始める。そして、予想を超えた感情のうねりが生まれる――。そこに対する「期待」を作品構造まで組み込んでいるのが、『ひとよ』の大きな魅力といえよう。そしてそのアプローチこそが、本作が日本の「家族映画」である所以ではないだろうか。


 『ひとよ』は、「我慢」の映画だ。家族4人それぞれが、本当の“想い”を押し殺し、再会後の日々で均衡を保とうとする。しかしさまざまな事件によって心が決壊し、愛憎が爆発する――積極的に家族がぶつかるさまを描いた『たかが世界の終わり』(16)や『8月の家族たち』(13)といった欧米の作品とは異なり、相手を傷つけることに対する怯えや抵抗感からなるディスコミュニケーションが、役者たちにとっての有機的な「枷(かせ)」として機能している。それを彼らが自力で外すとき、キャラクターもまた、15年という年月から解き放たれていくのだ。


 先ほど『凶悪』が「特化型」の作品と書いたが、これはリリー・フランキーとピエール瀧によるところが大きい。2人の「自由」に見えるアッパーな怪演が作品を過激に彩っているが、対照的に山田孝之演じる記者の存在が、「錨(いかり)」の役割を果たしている。『ひとよ』における各登場人物の位置づけは、『凶悪』でいうところの記者、或いは池脇千鶴が演じた記者の妻に近い。



 感情を抑える、我慢する、蓋をする――それはいずれ起こる「爆発」の布石であり、観る者もその瞬間を期待するだろう。そこに、カタルシスがあるからだ。そしてその「不和→激突→和解」、つまり事件や出来事によってディスコミュニケーションからコミュニケーションへと移行していくプロセスこそが、家族映画の醍醐味といえる。『ひとよ』は構造的にも、アプローチとしても純然たる家族映画の理を踏襲しているのだ。


 「我慢」が深く強いほど、そのあとに控えている「激突」も破壊力を増し、「和解」をドラマティックに彩る――。3人の子どもたちを演じた佐藤、鈴木、松岡には明確な「枷」が与えられ、その構造をことさらに感じさせる。佐藤が演じる雄二は「憎しみと挫折」、鈴木が扮する大樹は「吃音と暴力衝動」、松岡が体現する園子は「愛と孤独感」といったトリガーを持っており、それぞれが事件を呼び起こす。そして全ての元凶に、「母が父を殺した」暗い影がこびりついているのだ。




 根本的な原因は父の暴力にあるのだが、子どもたちの感覚的にはまちまちだ。園子は「お母さんは私たちを助けてくれた」と考え、母・こはる(田中)への思慕が強すぎて美容師の夢を諦める。大樹は「真実を言ったら家族は自分のもとを去る」と思い込み、母の存在ごと“血”を隠そうとするが、衝動を抑えきれずに「父さんみたいに」妻に手を上げそうになってしまう。雄二は、母への愛情と後悔がないまぜになり、小説家になるという夢もかなえられずに道を見失う。父の暴力を振り返り「簡単だった。耐えてればいいんだから」とつぶやく雄二のセリフは、残酷にも哀切に響くだろう。正解は、どこにもないのだ。


 子どもたちのためを思って起こした行動が、彼らの人生を激変させてしまったという事実。『ひとよ』は「感動の再会」で映画を締めくくるのではなく、再会から始まる苦悩を描く「その後」の物語だ。



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