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『アメリカン・ビューティー』我々は当たり前に狂っている――「普通」の定義をかき消す、不条理ホームドラマ

(c)Photofest / Getty Images

『アメリカン・ビューティー』我々は当たり前に狂っている――「普通」の定義をかき消す、不条理ホームドラマ

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舞台出身のサム・メンデスが構築する「肉体的」距離感



 演劇用語の「第四の壁」をご存じだろうか? 観客と舞台の間に存在する“見えない壁”を指すものであり、実際に観客と演者が過ごす時間・空間は地続きなのだが、そこに「壁」を隔てることで虚構と現実を区分けする、というものだ。映画では、『デッドプール』(16)が第四の壁を越えて観客に話しかけることが話題になった。



 メンデス監督はこの「第四の壁」をより強化し、「出演者がカメラに正対している」「画面の中心で“事”が起きる」という舞台的な構図を多用しつつも、観客と劇中の世界を隔絶する。カメラが切り取る世界を「箱」として見せることで、物理的な距離感をサブテキスト的に織り交ぜているようだ。


 冒頭、家々を空から見つめるショットから、そのような意識が感じ取られる。ドローン撮影が可能になった今や、この構図は珍しいものではないが、注目すべきはこの画と合わさったセリフ。「ここが僕の住む町。ここが僕の通り。これが僕の生活」というレスターのモノローグは、第四の壁を壊して観客に話しかけているように見えるが、実際にはどこにも届かない愚痴のように設計されており、観客と物語の隔絶をより引き立てている。我々観客が今から行うのは、あくまで“観察”――そのようなメッセージが伝わってくるかのようだ。実際、劇中には何度も「窓越しに目撃する」ショットが入り込み、観客の立ち位置を強く印象付ける。


 その後、レスターが会社で呼び出しを受けるシーンにも注目いただきたい。必要以上に引きの構図で撮影されており、レスターが空間に置き去りにされているよう。続いて、娘の成長を追った写真で「幸せだった過去」を提示し、現在の家族の冷え切った関係を示す食事シーンとつなげる演出でも、「過去は距離を近く、現在は距離を遠く」に描いている。レスターがアンジェラに恋をする序盤の重要シーンでも、引きのカットが挿入される。リッキー(ウェス・ベントリー)が初登場するシーンでは、暗がりでカメラを回している→自ら電気をつけて姿をさらす、という演劇的な描写もある。これらのすべてのシーンは、引きで固定され、カメラが縦横に動くことはない。



(c)Photofest / Getty Images


 演劇と映画の大きな違いは、「距離」だ。カメラが対象との距離を自在に変えることで、観客の受け取り方を操作し、共感を演出する――というのが映像ならではの利点だが、メンデス監督は要所要所で不自然に距離をとり、肉体的・物理的な感覚で画面を構成する。


 ちなみにこの舞台的な演出は、『007/スカイフォール』のボンドとシルヴァの対話シーンにも顕著だ。この部分の構図、距離の取り方など、演劇的なエッセンスが随所に観られる。鑑賞の際には、そうした“クセ”に気を配ってみるのも一興だ。


 距離感以外にも、メンデス監督は本作を3つの異なる映像で構成したという。「ビデオカメラの映像」「現実」「妄想」だ。個々のコントラストを強めるべく、ビデオカメラの映像は粒子を粗く、物語の大部分を占める現実シーンではフォーマルな見せ方を採用し、妄想シーンでは華美でスローな世界を形作っている。これらのはっきりとしたトーンの確立、シーンの中でグラデーションが起こるのではなく、独立したカラーのシーンを複数用意する方法論もまた、非常に演劇的だ。


 『アメリカン・ビューティー』では即興も積極的に取り入れられ、レスターがアスパラガスを壁に投げるシーンなど、多くのシーンで俳優の“素”が観られる。これらも、メンデス監督の演劇的なアプローチの1つだ。


 また、メンデス監督は最初の3日間の撮影内容に納得できず、スタジオに交渉して再撮影を行ったという。これは演劇→映画への転換の難しさを表すエピソードだが、メンデス監督が演劇のように「練り上げていく」スタイルを標榜していたことの証明ともいえよう。



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