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『アメリカン・ビューティー』我々は当たり前に狂っている――「普通」の定義をかき消す、不条理ホームドラマ

(c)Photofest / Getty Images

『アメリカン・ビューティー』我々は当たり前に狂っている――「普通」の定義をかき消す、不条理ホームドラマ

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狂っているのが「普通」という“内なる恐怖”



 このように演劇の手法を色濃く取り入れた『アメリカン・ビューティー』だが、スピルバーグ監督からのアドバイスも大きかったという。「常に劇場の大きなスクリーンでどう見えるか、意識すること」との助言を受けたメンデス監督は、画面自体をテクニカルに「盛る」方法論を採択せず、前述したように3パターンの映像を使い分け、構成の中に組み込むプランを用いた。


 テーマ的に影響を受けた作品には、ロバート・レッドフォード監督作『普通の人々』(80)が挙げられる。本作の終盤に用意されているクローゼットのシーンでは、わざわざ『普通の人々』と同じものを使ったそうだ。



 とはいえ、本作が独創的な作品であることは、明白だ。その大きな部分が、冒頭にも書いた「普通に狂っている」というキャラクター設定。娘に疎まれ、妻に虐げられ、「中年の危機」に苦しむレスターは、アンジェラに恋をしたことで「20年間眠っていて、ようやく目覚めたよう」と覚醒。アンジェラに話しかけるシーンでは完全に目が据わっており、娘のジェーンにドン引きされても止まるどころかエスカレートしていく。


 そのジェーンは、豊胸手術のために貯金をする多感なティーンエイジャー……のように見せかけて、隣人のリッキーに盗撮されることで快感を覚えてゆく。家族とうまく会話できず、親友アンジェラの影に隠れている彼女が、初めて誰かに興味を持たれたことで「悦び」を得てゆくプロセスは理解はできるものの、なかなかに極端だ。


 レスターの妻キャロラインは、バリバリのキャリアウーマン。と同時にかなり高圧的でヒステリックな人物だ。序盤から「レスターに運転をさせない」というシーンが描かれ、「家族のハンドルを握っている」リーダーポジションであることが描かれる。食事の際には自分の好きな音楽をかけ、家族を従わせようとする。この辺りも、さらりと描かれてはいるが、自分たちの日常にこんな人がいたら……と置き換えてみると結構おぞましい。



(c)Photofest / Getty Images


 彼らと対比して描かれるのが、隣人家族だ。盗撮が趣味のリッキーは、「盗撮」とはいえ自分を隠さない。堂々とジェーンを撮影し、気味悪がられても「君に興味を持ったんだ」と答える。アンジェラに「サイコ」とののしられても自分のスタイルを変えず、ジェーンは「彼は自分を知ってる」と逆に惹かれていく。だが、観客の目にはある種のボーダーを超えてしまっている彼が奇異に映るだろう。


 リッキーの父親フィッツは、封建的な軍人。ゲイを異常に忌み嫌う差別主義者で、息子を暴力で従わせる男だ。彼の妻バーバラ(アリソン・ジャネイ)に関しては劇中で詳しい説明はされないが、話しかけても返事をできない、常に目線が泳いでいる、など明らかに精神を患っている。


 この6人を中心に、物語は進んでゆく。ここで興味深い点は2つあり、1つは彼らが「隠さない」こと、もう1つは「日常に組み込まれている」ことだ。上に挙げたように、彼らは大なり小なり常軌を逸しており、観客の「常識」や「普通」のフィルターからはどう見てもはみ出している。これはつまり、「共感」の範疇を超えているということだ。だが、レスターにしろ、リッキーにしろ、自分が自分でいることを恥じることはない。「普通でない」ということは自覚しつつも、治そうとも取り繕うともしないのだ。


 そして、彼らが「日常」に生きていることも特徴的だ。変わった人物たちの博覧会として、「奇人譚」のように見せることはできるだろうが、『アメリカン・ビューティー』はそうしない。彼らが一般人に紛れて、というよりも彼ら自身が「一般」である、というような意識で物語を構築しており、タイトルの『アメリカン・ビューティー(アメリカの美)』も相まって、風刺性よりも恐怖を増幅させる。アメリカはここまで来てしまったのだ、という内なる恐怖だ。



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