2019.11.12
『アメリカン・ビューティー』あらすじ
40歳を過ぎた広告マンのレスター・バーナムと上昇志向たっぷりの妻キャロリン。彼らの家庭生活に潜む歪んだ真実が徐々に暴かれていく。妻は夫を憎み、娘のジェーンは父親を軽蔑している。そして会社の上司はレスターにリストラによる解雇を告げる。そんな毎日に嫌気が差したレスターは、人生の方向転換を図る。しかし、自由と幸せを求めるレスターを待ち受けていたのは、あまりにも高価な代償だった。
Index
- 従来の家族の概念が「消失」した斬新性
- 冒頭で自ら「結末をバラす」不条理演出
- 舞台出身のサム・メンデスが構築する「肉体的」距離感
- 狂っているのが「普通」という“内なる恐怖”
- キャラクターの「変化」が、かえってハレーションを引き起こす
従来の家族の概念が「消失」した斬新性
私たち人間は、普通に狂っている――。
日常の“病み”をあぶり出す、異端の家族劇。
家族は、実に不思議な代物だ。最小の共同体でもあり、世間の「常識」が通用しない、独自のルールが敷かれた集団でもある。どの個人も、家族の中で「ウチだけの決まり」があるだろう。
映画に限らず、小説や漫画やドラマやアニメ、音楽、美術……「家族」は日々描かれてきたテーマだ。それこそ、有史以前から掘り下げられ続けてきた、最古のジャンルかもしれない。私たちの生活に最も近く、最も共感でき、最も理解しがたいもの――。愛も不信も清濁もないまぜにした「家族」の魅力に、きっとこの先も人間は抗えないのだろう。
今回紹介する『アメリカン・ビューティー』(99)もまた、家族を描いた映画だ。ただ、いわゆる「家族映画」とはかなり趣が違う。家族映画の多くは、結びつき=“血”を前提に作られている。分かりやすい例でいえば、是枝裕和監督の作品群だ。『誰も知らない』(04)『そして父になる』(13)『海街diary』(15)『海よりもまだ深く』(16)『万引き家族』(18)など、血縁関係で構成された家族の功罪を描いている。これらは、家族は善であるべき、という当たり前の前提から出発した作品といえる。
ただ『アメリカン・ビューティー』はそうではない。本作は、端的に言うと「家族は無である」という前提を描いた映画だ。つまり、「家族は支えあうもの」という“常識”自体を消失させたものであるということ。
「常識を“破壊”する」という感覚であれば、そこには批判精神が浮かび、逆説的に従来の「家族像」を肯定したものとなる。この例は、近年の作品であれば、森に暮らす家族を描いた『はじまりへの旅』(16)、誘拐犯と暮らす『ブリグズビー・ベア』(17)、出生届すら出されない「推定12歳」の少年が主人公の『存在のない子供たち』(18)などだろう。これらは、家族の「定義」があったうえで、その逆を行く作品だ。
他にもグザヴィエ・ドラン監督作『たかが世界の終わり』(16)や著名舞台を映画化した『8月の家族たち』(13)は、家族との関係を断ち切れない切なさを描いている。否定しようとも否定できないもの、それこそが家族だ、と示した作品たちだ。しかし、『アメリカン・ビューティー』の中には、愛がない。従来の家族の概念自体が、冒頭から末尾に至るまで存在しないのだ。しかも、『アニマル・キングダム』(10)や『エル・クラン』(15)の犯罪一家のように特殊な環境下の家族でもない。これが「普通」というおぞましさが、画面全体にべっとりと塗りたくられている。
家族に見えない、のに家族――。この衝撃的な「視点」故に、本作は第72回アカデミー賞で作品賞、監督賞、主演男優賞、脚本賞、撮影賞の5部門で受賞することとなったといえよう。