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本物のレースと生身のドラマ『フォードvsフェラーリ』を爆速させる“ツインエンジン”

(c)2019 Twentieth Century Fox Film Corporation

本物のレースと生身のドラマ『フォードvsフェラーリ』を爆速させる“ツインエンジン”

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キャラクターを輝かせる「内なる闘い」



 『フォードvsフェラーリ』のストーリーは先ほど紹介したとおり、非常にシンプルだ。優等生と問題児のコンビが、最強王者を倒すために切磋琢磨する――王道の青春スポーツ漫画のような物語が、力強く突き進んでゆく。本作は最初から「ジャイアントキリングをどうやって起こしていくのか」が肝であり、そこにカタルシスを抱く構造になっている。


 では、その一本筋を面白くするものは何だろう? 「試練」と「キャラクター」だ。苦難が物語に起伏を与え、ドラマ性を付加していく。キャラクターがダイナミズムをもたらし、幅と奥行きが増していく。


 試練においては、「マシン作り」「レースの攻略法」といったストレートなものは当然ながら、尺が割かれているのはむしろ内紛。無理難題を押し付けてくるフォード側と、シェルビー&マイルズの「内なる闘い」がドラマ部分の中核を形成している。そしてまた、この部分がじっくりと描かれているからこそ、観る側の共感性が引き上げられることにもなる。例えば職場や組織など、自分が属する場所に置き換えて観ることができるからだ。



『フォードvsフェラーリ』(c)2019 Twentieth Century Fox Film Corporation


 フォードにあるのは、侮辱したフェラーリをギャフンと言わせたいという憎悪。ただもちろん、巨大企業であればこそ私利私欲だけでは動かない。腹の内にあるのは黒い感情だが、ル・マンの参加は社を挙げてのPRでもある。ここで王者を蹴落とすことで、フォードのブランド力を上げ、売り上げを爆増させたい――。ビジネス的な視点においても、勝利を狙ってくる。その大義に、シェルビー&マイルズは振り回されることになるのだ。


 厄介なのは、フォード側がレースチームのメンバーにまで口を出してくること。特に、集団行動が苦手な一匹狼マイルズは、企業的にはブランドイメージを損ねかねない危険なレーサー。フォードの重役たちは彼の能力は十分に認めたうえで、フォードのレーサーとしてふさわしくないとシェルビーに圧力をかけ、マイルズ外しを断行しようとする。


 さらには、レース中においてもシェルビーを飛び越えてチームに指示を出そうとし、彼の逆鱗に触れることになる。ただの「目標に向かって頑張る」爽やかな話ではないところが、実話ならではの苦みと物語的な深みをもたらしている。


 役回り的には完全に「悪役」なのだが、企業側の目論見も十分に理解できる、という部分も本作の秀逸な要素。娯楽性を引き出すために強引な対立構造にすることなく、観る者が「企業的な選択」に歩み寄る余地が残されている。そもそもシェルビーとマイルズにとってはフォードは雇い主であり、彼らの存在無くしては夢を追いかけることなどできない。



『フォードvsフェラーリ』(c)2019 Twentieth Century Fox Film Corporation


 例えば日本のTVドラマ『踊る大捜査線』(97)などでは現場と上層部の衝突がキーだったが、あれはあくまで組織の“仲間”という括りだ。だが本作の構造は、クライアントと下請けに近く、最初からパワーバランスが均衡ではない。しかしだからこそ、リスクをとってでもマイルズをかばおうとするシェルビーの姿には男気が宿るし、シェルビーの覚悟を見たマイルズが友情だけではなく恩義を胸に、レースに挑む姿が胸に迫る。


 あくまで雇われた存在。クライアントの意向には意見こそすれ、従わなくてはならない。ただそれでも、牙も信念も捨てない――。時にはひと芝居打ち、また時には自分たちの技量で納得させ、どうしても譲れない場では捨て身で訴える。もがきながら歪な状況を乗り越えんとする男たちのドラマが、マット・デイモン、クリスチャン・ベールの流石の名演によって重層的に描かれる。この「設定」と「演技」の抜群のかけ合わせが、本作の“価値”を極限まで高めているといえよう。



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