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デヴィッド・リンチ監督作『ワイルド・アット・ハート』が、『オズの魔法使』を引用している理由とは

(c)Photofest / Getty Images

デヴィッド・リンチ監督作『ワイルド・アット・ハート』が、『オズの魔法使』を引用している理由とは

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非情な暴力性の裏に芽生える、純粋なラブストーリー



 悪夢のようなヴィジュアル、暴力の渦巻く闇の存在、夢と現実の狭間……。デヴィッド・リンチの作品を言い表すときは、そのような極めて退廃的なワードが陳列される。ただし、それらはリンチの作品では、ごく一部の要素にほかならない。確かに、リンチの作品を語るうえでは、そういう倫理観の欠落は、重要なファクターとなる。しかし、奇才リンチ監督は、それらの要素を隠れ蓑として、ピュアな妄想を描いてきた。


 分かりやすいところでいうと、『ブルーベルベット』における光と闇の関係性だ。同作では、ローラ・ダーン扮するヒロインの女の子が、ある日見た夢の話をするのだが、その夢に現われたのは、愛の象徴といわれるコマドリの群れだった。暗黒の世界にコマドリの群れが放たれ、愛の光で世界を浄化するというのだ。さらに映画の最後には、コマドリが昆虫(すなわち闇の権化である)をむしゃむしゃと食べるシーンが挿入されている。要するに、コマドリという平和の使者によって、悪弊が断たれ、再び光が訪れた、というわけだ。



『ワイルド・アット・ハート』(C) 1990 Universal Studios. All Rights Reserved.


 非常にありきたりで、まったく陳腐なメタファーである。しかし、この陳腐さこそ、まさしくデヴィッド・リンチのピュアな一面なのである。そのような、大げさでわざとらしい演出ではあるのだが、なぜか“クサさ”を感じさせないのが、リンチ作品の凄味であろう。そういう純粋さは、例えば『ワイルド・アット・ハート』では、セイラーとルーラの情熱的な愛によって表現されている。ふたりの生きる世界は、恐ろしく危険で、狂気に満ちているが、若き男女の無償の愛は、すさまじくピュアなのである。


 リンチ監督は、そういう陳腐すぎるシナリオを、まったく臆面もなく書き上げてしまうのだから、尊敬に値する。彼の映画はひとえに難解であるとか、意味不明であるとか、さまざまに言われているが、ある一部を凝視すると、そういうピュアで純情で、イノセントな一面が浮き彫りとなるはずだ。それらの陳腐な表現に、なぜ“クサさ”を感じないのか――あるいは気づかないのか――というと、それは背景となる世界観があまりにもイカれているから、なのだろう。そういう純真無垢な感性と、極めて不快な暴力性の融合は、『ワイルド・アット・ハート』である種の到達点を迎えている。



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