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『ベンジャミン・バトン~数奇な運命』ブラッド・ピットとフィンチャーがおくる、人生の夢と儚さ

『ベンジャミン・バトン~数奇な運命』ブラッド・ピットとフィンチャーがおくる、人生の夢と儚さ

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父親の死と向き合った体験を投影したフィンチャーのドラマ作り



 この映画の場合、つい革新的な映像技術に目がいきがちだが、けっしてそこだけが見どころの作品ではない。フィンチャーといえば『セブン』(95)、『ファイト・クラブ』(99)、『ゾディアック』(07)『ゴーン・ガール』(14)のようにスリラー系の映画が際立っているが、そんな彼のフィルモグラフィの中で『ベンジャミン・バトン』は少し違う味わいの作品となっている。


 フィッツジェラルドの短編小説の映画化ということもあってか、アメリカ文学の香りがあり、それまでの映画になかったロマンティックな詩情が感じられる王道のドラマになっている。参加した動機についてフィンチャー自身はメイキング映画の中でこう語っている。


 「父親を亡くした後、死をテーマにした作品にひかれていた。死の床にいる人間の側にいる体験は子供を持つこと以上に深遠なものに思えたからだ。早くその時間が終わってほしいと思う反面、どこかで終わってほしくないという気持ちもあった。」




 映画で最初に登場するのは物語の語り部となる母と娘である。パーキンソン病に倒れ、死期が迫った母(デイジー)は娘(キャロライン)に一冊の日記を朗読してほしいと頼む。それはベンジャミン・バトンが生前に残したもので、彼が永遠に愛したデイジーとの過去の物語が綴られていた。謎を解き明かすようなこの語り口はスリラーを得意とするフィンチャー調だが、死期が迫った女性の遺言状のような視点になっているところが他のフィンチャー映画とは異なる。


 監督が“死”の映画と語っているように、劇中では多くの人間たちが死を迎える。まず、ベンジャミンを産んだ後、母親が亡くなる。ベンジャミンが捨てられた老人ホームでは死に最も近い年老いた男女が暮らしている。ベンジャミンが戦争に行き、船が激しい爆撃を受けると大勢の人々が死に至る。やがて、ベンジャミンと一緒に海辺で朝日を見た彼の父親が亡くなり、ベンジャミンの義理の父親的なティジーや人々に愛された育ての母クイニーもこの世を去る。長い年月に渡る物語ゆえ、多くの人々が次々に消えていく。


 すべての物ごとが永遠に続くわけではなく、人の命もいつかは尽きる。そして、多くの人が叶えられなかった夢への喪失感や後悔を胸に秘めながら生きている(デイジーはダンサーとしての夢を捨て、ベンジャミンの父は息子を捨てたことを後悔している)。愛し合うベンジャミンとデイジーも、この世の儚さを意識している。ふたりの時計の針はお互いに逆の方向に向かって進んでいるからだ。だからこそ、彼らの時間が遂に交差する短い時間がひときわ貴重なものに思える。




 特に忘れられないのは、美しい青年の姿でベンジャミンが旅先からデイジーのもとに戻ってくる場面だろう。その時、デイジーはもう彼の母親くらいの年齢になっている。「続くものなんて、ないのね」とつぶやきながら、自分がかつて愛した男の顔にそっと手をあてる物憂げな顔のデイジー。時間の残酷さが突き刺さる名場面となっている。


 「人は生まれた時と同じように何も持たずに死んでいく」。劇中にはそんなセリフも登場するが、フィンチャーは自身が私生活で体験した死の感覚を主人公たちに託すことで、深い感情の襞に踏み込もうとする。傑作『セブン』でも分かるように人間の深層心理を描くのがうまい監督だが、この映画では親子や恋人たちの関係を通じて、生と死の間にある繊細で複雑な思いをすくい上げ、新境地ともいえるドラマを作り上げている。



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