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『ミッドサマー』恐怖から“共感”への悪魔的誘導――自我を消し去るラブストーリー

『ミッドサマー』恐怖から“共感”への悪魔的誘導――自我を消し去るラブストーリー


『へレディタリー/継承』から進化した「同調性」



 かといって、『へレディタリー/継承』や、アリ監督が学生時に製作した『The Strange Thing About the Johnsons』(11)の中にある“個性”が消えたわけではもちろんない。むしろ「わかりやすさ」「とっつきやすさ」を手に入れたことで、アリ監督独自の作家性が一層際立っているのが、『ミッドサマー』の驚嘆すべき点。一言で言えば、より「洗練された」印象だ。


 精神的に病んでおり、抗不安薬が欠かせない大学生ダニー(フローレンス・ピュー)。彼女は、妹が両親と無理心中を図ったことで絶望に叩き落される。一方、依存症気質の彼女を重荷に感じていた恋人のクリスチャン(ジャック・レイナー)は、別れを切り出すタイミングを失っていた。そんな折、ダニーはクリスチャンと仲間たちのフィールドワークに同行することになり、スウェーデンの辺境にあるホルガというコミュニティを訪れる。その場所の住人は、外界との接触を制限し、独自の信仰を重んじる自給自足の生活を送っていた。


 以上がより詳細な『ミッドサマー』の序盤のあらすじだ。ここを見ればわかるとおり、アリ監督の特色である「家族」「信仰」の2つのテーマが、本作でも中核を成している。さらに細かく見ていけば、「不安」「不幸」「暴力性」といった観客を安穏とさせてくれない符合に気づくはずだ。また、これまでもうっすら匂っていた「愛の異常性」について、より深くまで踏み込んでいる。家族がメインではなく、恋人を中心に据えたことでこの変化が起こったのだろう。



 そして、ここが極めて重要な部分なのだが、『ミッドサマー』はこれまで以上に「理解不能な救済」を強烈に描いている。『へレディタリー/継承』は、悪魔崇拝によって救われる祖母/破壊される家族のギャップが恐怖を呼び起こしていた。本作では、妹の無理心中によって、つまり「家族」というものに人生をズタズタにされ、不確かな恋人との「愛」に心をむしばまれているダニーが、「村人はみな家族」という共同体と過ごすことで、恐怖は抱きつつも、同時に救われてもいくさまを見事に映し出す。ホラー/スリラー調の文脈ではあるのだが、中身は救済を描くラブストーリーなのだ。


 ただ「恐ろしい」だけでない、信念や神々しさすら感じさせる芸術性。これは『へレディタリー/継承』が脚光を浴びた理由の1つといえるが、この作品と観客の関係は絵画と観覧者の関係のような、どこか隔絶したものだった。つまり、『へレディタリー/継承』の中にある“救済”は我々観客にとって奇異なものに終始し、その「理解できない」ディスコミュニケーションがおぞましさを生み出していたのだ。




 それに対し、『ミッドサマー』には「同調性」が確かに、意図的に流れている。傍から見れば「理解できない救済」だったはずなのに、内に入り込めば入り込むほどに“適応”、或いは“順応”し、心地よさを覚えていく。例えば『ジョーカー』(19)の主人公の悪へと進んでいく行程や『パラサイト 半地下の家族』の常軌を逸した行動が、「理解できてしまう」恐ろしさ――善と悪のアンバランスさこそが“人間”なのだ、とする主張が、『ミッドサマー』の中にもDNAとして組み込まれているような気がしてならない。


 それはホルガの描かれ方にも顕著だ。単に“理解不能な気持ち悪いもの”としてコミュニティを提示するのではなく、内に入るか/入らないかで見え方が変わるものとしている。『へレディタリー/継承』の一方通行から、『ミッドサマー』での双方向へ――本作は「対話」へと深化しているのだ。アリ監督の恐るべき手腕は、早くも成熟期を迎えている。



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