無数に仕掛けられた、視覚的な伏線
物語に“布石”を打ち、画面に“予兆”を混ぜ込むのもアリ監督の特色だが、『ミッドサマー』でもいたるところに伏線が仕掛けられ、繰り返し観ることで観客が気づくような構造になっている。
顕著なのは、先に述べたような画面の明るさの転換。冒頭、雪が降る米国でのシーンでは、画面が非常に暗く、シリアスな雰囲気を如実に醸し出している。冒頭、スマートフォンを持つダニーの表情をアオリで撮るカットも、観ている側が「気持ち悪い」と感じるような絶妙に中途半端な角度になっており、『ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語』(19)、『ブラック・ウィドウ』(20)と話題作への出演が続くピューの過呼吸めいた熱演(家族が亡くなった際の泣きの演技は、鳥肌が立つほど痛々しく素晴らしい)も相まって、観る者の不安をキリキリと掻き立てる。序盤はほぼすべてのシーンが暗がりか間接照明で構成されており、照明デザインとトーンが見事にリンクしている。
ダニーとクリスチャンの会話が、部屋の姿見を通して交わされる演出も秀逸だ。2人は向き合うことなく、言葉だけが空しく浮遊する。離婚の道を選んだ夫婦を描いた『マリッジ・ストーリー』(19)は「消えゆく愛」を空気感で見事に表現していたが、本作では舞台装置を効果的に使って、別れの危機に瀕した恋人たちの状況を示している。当然ながら、このシーンも画面の色彩は重く、光量は暗い。
『ミッドサマー』(c)2019 A24 FILMS LLC. All Rights Reserved.
ところが、スウェーデンに降り立つと画面は一気に明るくなり、さらにホルガに入る直前でカメラが回転し、天地が逆になる。この動きが“スイッチ”となっており、このシーン以降、物語は大きく動き出していく。ホルガでは皆が白を基調とした服を着ており、カラフルな花が咲き乱れ、白夜のため闇が訪れることはない。画面に闇が訪れるのは、ダニーが家族のトラウマに襲われたり、友人が危険な目にあう一瞬だけだ。
こういったビジュアル面の仕掛けは、観れば観るほど大量に仕掛けてある。例えば、前半に登場するダニーの部屋には、スウェーデンの画家ヨン・バウエルの『哀れなクマさん』の絵が飾ってある。これは彼女がその後スウェーデンに行くこと、そして後半に用意されているある展開を示唆している。また、ダニーが友人たちと話すシーンでは、『オズの魔法使い』(39)のかかしの写真が飾られている。これも、大学生たちの運命を象徴するものだ。
ドラッグを摂取するシーンも、なかなかこれまでの映画ではお目にかかったことのない演出が見られる。トリップ状態になったダニーは、自分の足から草が生える=地面と同化する幻覚を見るように。さらには、視界に映る花が“呼吸”して見えるようになる。おしべとめしべが収縮と膨張を規則正しく繰り返し、まるで生き物のように息づいていくのだ。この新たなるドラッギーな表現も、視覚的な面白さだけではなく“意味”が無数に込められている。
『ミッドサマー』(c)2019 A24 FILMS LLC. All Rights Reserved.
深読みすれば、ダニーの妹は排気ガスの吸引自殺を行っており、ドラッグを吸引するという行為自体が、家族の死をオーバーラップさせるものにもなっている。「煙」はダニーにつきまとう恐怖と不安のメタファーになっていて、劇中に幾度も登場する。また、ダニーと友人が目にするホルガの恐るべき儀式の最中に、死んだ家族の顔がサブリミナル的に挿入される演出も、実に底意地が悪いが極めて効果的だ。
かと思えば、これから起こることがすべて「紙芝居」で説明されるというあっけらかんとした演出も入っている。ご丁寧に大学生たちが絵を1枚1枚観ていくシーンが描かれ、観客に「これは絶対に何かある」と想起させる“歩み寄り”を見せるなど、本作では前述した「わかりやすさ」に重点が置かれているのだ。
一発で理解できるストーリーと、何度も観ることで理解が深まる“やり込み”具合。このバランス感も、アリ監督が『ミッドサマー』で披露した新たな武器といえよう。