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『ラ・ラ・ランド』甘い愛、苦い現実、取捨と選択――儚き「夢追い人の彷徨」

『ラ・ラ・ランド』甘い愛、苦い現実、取捨と選択――儚き「夢追い人の彷徨」

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恋愛映画の「王道」を逆手に取った演出



 華やかさと残酷性が表裏一体の関係性にある、『ラ・ラ・ランド』の深み。これまで述べてきたように、観る者自身がどの立ち位置にいるかによって、受け取り方が大きく変化する作品といえるだろう。この“効果”は、「憧憬」をどうとらえるか、という作品自体の主題が反映されているようにも感じられる。つまり、女優や音楽家を媒介にした娯楽・芸術の世界に対する、観客の感覚だ。


 娯楽や芸術を「観るもの」と思うか、「作るもの」と見るか。“受信側”に近い人物であれば、本作の「楽しさ」に惹かれてゆくだろうし、“発信側”に近い人物であれば、「苦しさ」が目に付くだろう。自分は“どちら側”にいる人間なのか――。観る者の「生き方」を容赦なくあぶり出すという点で、本作はただ気持ちがいいだけのエンターテインメントに終始しない。ミュージカルであり、ラブストーリーであり、夢追い人たちの人間ドラマでもある『ラ・ラ・ランド』だが、その裏では常に光と影、夢と現実の相克が発生している。


 その印象を強める“特異性”が2つ、本作には存在する。1つは、「脇役の不在」。もう1つは、「夢と現実の落差」だ。




 実は『ラ・ラ・ランド』は、オープニングの「Another Day of Sun」のシークエンス以外、ほぼ全編にミアかセブ、或いは2人が登場している。ミアのルームメイトやセブのバンド仲間など何人か重要人物は登場するものの、基本的には「2人の物語」に徹しているのだ。画面に常に主人公のどちらかがいるため、本作は究極的に「主観」で描かれることになる。


 ミアとセブの主観のみで構成された物語。つまり、『ラ・ラ・ランド』では「他者の介入」が省かれており、「独りよがり」な目線しかないということ。このつくり自体は、ラブストーリーというジャンルではそこまで珍しくなく、ひょっとしたら「王道の演出」といえるかもしれない。しかし、本作においてはそうではない。何故か。『ラ・ラ・ランド』は、純然たるラブストーリーではないからだ。


 ミアとセブは、恋愛をするためにLAにやってきたのではない。彼らがこの街を訪れたのは、女優とジャズピアニストという“夢”をかなえるためだ。そして2人に立ちはだかる壁は、“他者”なのである。どちらの運命も、手綱を握っているのはプロデューサーや店のオーナーといった、自分以外の人物。成功のためには「選ばれる」ことが不可欠にもかかわらず、彼らの存在を隅に追いやってしまう本作の構造は、次第に悲劇性を増していく。




 主観でいっぱいになる=恋愛要素が強まっていくほど、本来の目的とはズレていくという巧妙な仕掛け。『セッション』では早々に「恋愛は表現の邪魔」と主人公に言わせたチャゼル監督は、本作ではその思考を変えることなく、より残酷な方法を提示して登場人物に試練を与える。ミアとセブがラブストーリーを選ぶなら他者はいらないが、表現者として名を挙げたいなら「選ばれる」こと――他者の介入が必要だ。そのことに気づきながらも共に往く道を選ぼうとするセブと、恋か夢か決めきれずに涙を流すミア。2人の逡巡はやがて、映画史に残るといっても過言ではない、儚いラストシーンへと繋がっていく。


 夢と愛は、必ずしも敵対関係にあるわけではない。しかし、どちらかを選ばなければならない局面は必ずやってくる。自らも音楽の道を目指した経験があるチャゼル監督だからこそ、「幸せに見えるシーンこそ、夢への後退では?」という観点を突き付けることができたのだろう。画面は多幸感に満ちていても、それがイコール「成功」ではない――。表現者においては飢餓感こそが、エンジンともなるからだ。この“天邪鬼”な構造は、夢に心血を注いだことがある人ほど、鋭く突き刺さることだろう。



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