“貴種流離譚”としての神話的構造
原作は、バーナード・マラマッドが1952年に発表した小説「ザ・ナチュラル」。しかし映画化にあたっては多くの改変が行われた。原作では、ロイ・ハブスはオーナーから賄賂を受け取って八百長に加担。最後の打席で心変わりをするものの、彼の悪行が新聞にリークされてしまう、という悲劇的結末を迎える。
しかし脚本を担当したロジャー・タウンとフィル・ダッセンベリーは、悪魔の契約には手を染めず、純粋にペナントレースを勝ちとろうとするエンディングに変更。暗くてシニカルな原作のタッチを、明るく牧歌的なトーンに塗り替えたのだ。
国民的スターであるロバート・レッドフォードが、アンチ・モラルな人物を演じるなんぞ絶対NGであるからして、小説版では道徳観念が欠落しているように見える主人公ロイも、観客の共感が得られるように、正義感が強く高潔なキャラクターにリ・ボーン。
『ナチュラル』(c) 1984 TRISTAR PICTURES.ALL RIGHTS RESERVED.
かくして作られた『ナチュラル』は、一見するとご都合主義な展開がやや目につく、典型的なハリウッド映画のように思えてしまう。
しかし本作のストーリーラインは、実は神話的構造を有している。主人公ロイ・ハブスは、ホメーロスの叙事詩『オデュッセイア』の主人公オデュッセウス的存在だろう。ロイは長い旅路の果てに“自分の居場所を見つける”が、オデュッセウスもまた長い苦難の旅路を経て、故郷へ戻る。これは一種の貴種流離譚なのだ。
「選手の生死は俺の手の中にある」と語る新聞記者のマックス(ロバート・デュヴァル)は、火と鋳造の神ウゥルカーヌス(ヴァルカン)だろう。彼は常に赤茶けた服に身を包み、記事を書くことによって“火をつける”=“過去を暴露してロイの社会的地位を失墜させる”こともできるし、“鋳造する”=“ロイをスターダムに押し上げる”こともできる。
ニューヨーク・ナイツの監督ポップ・フィッシャー(ウィルフォード・ブリムリー)は、神々の王ゼウス。ゼウスの聖木はオークだが、彼の周りにも常にオークを削って作られたバットが散乱している。そしてポップの背番号は、全ての頂点を表す“1”だ。
『ナチュラル』(c) 1984 TRISTAR PICTURES.ALL RIGHTS RESERVED.
ニューヨーク・ナイツのオーナーである判事(ロバート・プロスキー)は、冥界の神ハデス。片目を覆って、ロイの所持金を当てると豪語した謎の胴元ガス・サンズ(ダーレン・マクギャヴィン)は、一つ目の巨人サイクロプス(ガスの片目はおそらく義眼だろう)。
ロイの幼馴染であり、彼の終生の伴侶となるアイリスは、オデュッセウスの妻ペネロペ。彼女はオデュッセウスが16年間に渡って故郷を離れているあいだ、一人で息子を育てていたが、アイリスもまた16年間たった一人でロイの子供を育て上げた。
また『ナチュラル』のアウトラインは、「アーサー王伝説」にも類似している。ロンギヌスの槍によって癒えない傷を負ったフィッシャーキング(漁夫王)のために、勇者たちが伝説の聖杯を探し求め、みごと王を救う。『ナチュラル』もまた、優勝から見放された不運のフィッシャー監督のために、Knigts(騎士団)のユニフォームに身を包んだ選手たちが、悲願のペナントを手に入れるために戦い、みごと勝利する。