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『水曜日が消えた』中村倫也×新鋭監督が醸造した、「優しい新感覚」

(c)2020『水曜日が消えた』製作委員会

『水曜日が消えた』中村倫也×新鋭監督が醸造した、「優しい新感覚」

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ノーラン的「仕掛ける」映像表現



 『水曜日が消えた』にみなぎる、独創性。


 “自分”が複数いる、という設定だと、ノオミ・ラパスが7つ子を演じた『セブン・シスターズ』(17)や日本リメイクもされたドラマ「オーファン・ブラック」(13~17)、あるいは「24人のビリー・ミリガン」や『嗤う分身』(13)、『複製された男』(13)のようなイメージがわくが、本作の立ち位置は、どちらかと言えばクリストファー・ノーラン監督作『メメント』(00)や、ダンカン・ジョーンズ監督作『月に囚われた男』(09)に近い。


 『水曜日が消えた』は、7つの人格をフラットな視点で描くのではなく、“火曜日”の視点に集約させ、彼が自分ではどうやっても会えない「他の曜日」に起こった謎を解き明かしていく物語だ。前出した「多重人格もの」「分身もの」の派生作品と異なり、主観で構成されている点に特色がある。部屋のいたるところに付箋やメモを貼り、情報の共有を図る設定、劇中に仕掛けられている「時間が飛ぶ」演出など、ノーラン監督との共通性も随所に感じ取られる。


 さらにそこに、一世を風靡したアイデア作『ハッピー・デス・デイ』(17)や日本の小説をハリウッドが映画化した『オール・ユー・ニード・イズ・キル』(14)的な「タイムリープもの」のエッセンスを足しているのも興味深い。“火曜日”が目覚めるシーンから新たなパートが始まり、「翌週の火曜日だと思っていたのが翌日の水曜日だった」という衝撃性(曜日ごとに変わるテレビの番組や、町内に流れる「朝の音楽」、ゴミ出しによって違いが示される)が、主人公の行動や物語自体に伝播していく。つまり、「目覚める」がスイッチになっている、と観客に理解させるような映像的説明が、非常に洗練されている。



『水曜日が消えた』(c)2020『水曜日が消えた』製作委員会


 加えて、主人公の人格が7つに分裂した要因である事故の様子を何度もサブリミナル的に挿入する(しかも、よく見るとそこに変化が起こっていく)演出は、『2重螺旋の恋人』(17)などのフランソワ・オゾン的なしたたかさをも感じさせる。物語にアイデアが詰まっているのはもちろんだが、こうした映像的な“遊び”にも余念がない。


 火曜日に起こり始める異変の演出も、先ほど挙げた「時間が飛ぶ」だけでなく、「話し相手の声が消える」「視界が揺らぐ」「昏倒する(このシーンのスローモーションのかけ方もハイセンスだ)」「映像全体にノイズが入る」など、多岐にわたる。画面へのノイズの入れ方も、よくあるタイプの「映像と音の乱れ」ではなく、ネオン色の電流が走るような、吉野監督のビジュアルセンスが活かされたものになっている。


 乱暴な言い方をしてしまえば「ダサさがない」ため、観客が常に新鮮な気持ちで1つひとつの小技に驚くことができるのだ。このスタイリッシュさは、『新聞記者』(19)の藤井道人監督にも共通する特長かもしれないが、まさに新たな才能の台頭を感じさせる。


 基盤となるストーリーラインにおいても、必要以上にわかりやすく作りこんでいない。むしろ、観客が頭を使うことでやっとついていけるような場所から手招きしているような、ニューロンを刺激するクレバーな展開というのは、かなり心地よいのではないか。この「能動的に観客に参加させる」構図は、“火曜日”が「自分」に起こった真相を探ろうとする状態ともオーバーラップする。『メメント』のように「1度観ただけではわからない」難易度ではもちろんないのだが、映像的な仕掛けも含め、細かく見ていくことで輪郭が濃くなっていくタイプの作品ではある。


 こうやって作り上げられた“世界観”は、谷戸プロデューサーが「彼しか考えられない」と熱望したという、中村倫也の参加によって一気に、多彩に花開いていく。



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