2020.07.03
軽妙なだけで終わらない、シリアスなエグみ
若い2人がすれ違っていくビターな物語の要素を含んだ、『レイニーデイ・イン・ニューヨーク』。本作にはもう一つ、見過ごせないシリアスな要素がある。そちらについて少し考察し、本稿を締めくくりたい。
アレン監督はこれまでの作品でも「男と女」の違いを描いてきたが、本作では「女がいないとダメな男」「男を利用する女」がシニカルな目線でつづられる。アシュレーはニューヨークに出てきたことで、監督や脚本家、俳優など、あらゆる男から求愛を受けることに。彼らは軒並み自分本位で情けなく、女性に「癒し」や「救い」を求める(或いは、一瞬の快楽)。さらにその姿がテレビでゴシップ的に報道され、アシュレーは一夜にして別世界の住人になっていく。
そういった“男の弱さ”を目にしたギャツビーが、嫉妬心だけでなく、自分の在り方について思案する流れは、彼の成長を示す点で非常に有効だ。彼らのように露骨でないにせよ、ともすれば、似たような形でアシュレーを「使って」いたかもしれないと気付いたギャツビーは、その後の自らの行動で、違いを見せようとしていく。
『レイニーデイ・イン・ニューヨーク』(c)2019 Gravier Productions, Inc.
同時に、アシュレー側から見ると、そうした「男の弱さ」を理解したうえで、どう動くことが自分に最も利益が舞い込んでくるかを判断し、乗っかろうとする野心的な一面が垣間見える。これはアシュレーだけでなく、脚本家の妻、ギャツビーがバーで会う女性や母親、あらゆる女性の登場人物に共通する要素として付加されている(唯一、そこにそぐわないのがチャンという構造も上手い)。
基本的にはコメディタッチで進んでいくのだが、この辺りを考え出すと途端に男女間の社会的なエグさが立ち上がってくるから、強烈だ。奇しくも同時期に公開される『グッド・ワイフ』(18)も、裕福な男性に嫁いでセレブ生活を享受する、妻たちの生活が崩壊していくさまを描いているが、こちらは1982年が舞台。『レイニーデイ・イン・ニューヨーク』の舞台は、スマートフォンも登場する現代だ。
多様性への理解が進んだように見えて、こういった男女間の「消費」と「利用」が公然と描かれてしまう事実。これは皮肉でも歪曲でもなく、そういった風習が、社交界や芸能界ではまだ在るのだろう。『レイニーデイ・イン・ニューヨーク』は、決して「楽しい」「美しい」だけでは終わらない。
冒頭で「まずは純粋な物語の話だけにとどめる」と書いたが、今現在この作品を観ると、ワインスタイン問題や『スキャンダル』(19)で描かれたようなセクハラ問題、或いは日本のワイドショーを騒がせている不倫問題などが、どうしてもちらついてしまうのではないか。この作品自体も、芸能界や社交界の中に巣食う乱れた関係を、かなり意図的に見つめているように映る。そして、作品がその後にたどった流れを考えると、ある種の呪いめいたものを感じずにはいられない。
『レイニーデイ・イン・ニューヨーク』が描いたのは、あくまで「現状」。
真に観るべきは、この物語の“後”なのかもしれない。
文: SYO
1987年生。東京学芸大学卒業後、映画雑誌編集プロダクション・映画情報サイト勤務を経て映画ライター/編集者に。インタビュー・レビュー・コラム・イベント出演・推薦コメント等、幅広く手がける。「CINEMORE」「FRIDAYデジタル」「Fan's Voice」「映画.com」「シネマカフェ」「BRUTUS」「DVD&動画配信でーた」等に寄稿。Twitter「syocinema」
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『レイニーデイ・イン・ニューヨーク』
2020/7/3(金)、新宿ピカデリー、ヒューマントラストシネマ有楽町、YEBISU GARDEN CINEMAほか全国公開
配給:ロングライド
(c)2019 Gravier Productions, Inc.
Photography by Jessica Miglio (c)2019 Gravier Productions, Inc.