風の通り抜ける映画
さらに、もう一つの要となったのは、村上文学の空気感を表現すべく生み出された、画期的な「セット」だ。それは横浜の小高い丘にあるだだっ広い空き地に建てられた。屋内シーンばかりの本作は、実のところほぼ全シーンにわたってこのセットで撮影が行われている。
撮影を担った広川泰士は写真家としても名高いが、本作の現場についてこんな言葉を残している。
「騒音や風など、刻々と変わっていく環境の変化に左右される面もありました。でも、監督は『風が通り抜ける映画ということにしよう』と言ったのです」(*2)
この撮影風景については、先述のメイキング・ドキュメンタリー『晴れた家』でも詳細に記録されており、文字だけではわからないリアルな現場の状況を伝えてくれる。
『トニー滝谷』(C)2005 WILCO Co., Ltd.
中でも私が驚いたのは、部屋のセットといっても、そこは一般的な屋内スタジオのように四方を壁で囲まれているわけではなく、光を遮る天井と側面だけを組み上げた吹きっさらしの「ステージ」だったこと。
さらに、本編で「大きな窓」かと思い込んでいたものが、実際は何の隔たりもなく風が吹き込むオープンな空間だったのも驚きだった。主人公の仕事場や自宅はもちろん、結婚式場も、更衣室も、バーも、すべてこのステージが形を変えたもの。それがれっきとした部屋に見えるのは、ひとえにカメラの枠が巧妙に空間を切り取っているからだ。
びゅうと風が吹き抜ける。屋内シーンにもかかわらず、出演者の衣装がそれに合わせて心地よさそうにそよぐ。通常の映画ではありえないこの不可思議な違和感が、地上からふわり浮遊したみたいな、村上文学の空気感にピタリとはまる。なるほどこれは密閉性の高い映画スタジオなどでは決して得られない、ある種の発明的な感度を持った映像といえよう。
*2:「市川準」p.126より引用