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『ディック・ロングはなぜ死んだのか?』コメディをあえて文学的手法で描く意図とは?
2020.08.10
シリアスな題材と奇妙なユーモア
本作のタイトル通り、ディックは治療の甲斐なく亡くなってしまい、地元の警察は捜査を開始する。ディックの仲間ジークとアールには都合の悪い展開だ。ちなみに、死んだディックを演じていたのは、ダニエル・シャイナート監督自身である。この役については、チャニング・テイタムやジャスティン・ティンバーレイクなどの著名な人物にオファーしたというが、軒並み辞退されてしまい、監督がついに自分で演じることにしたのだという。
ジークは翌朝、自分の幼い娘を乗用車に乗せると、昨夜ディックを運んだときにシートにこぼれた血が、娘の背中にベッタリとついてしまっていることを発見。劇中では、それを誰にも見られないよう、あたふたしながらごまかす様子が描かれる。さらに証拠の血が染み込んだ車を隠そうと、水辺に沈めるため四苦八苦する様子も。まるでヒッチコック監督のサスペンス映画『サイコ』(60)の一場面そのままに。
『ディック・ロングはなぜ死んだのか?』© 2018 A24 Distribution,LLC. All rights reserved.
その後、妻に「車はどうしたの?」と尋ねられると、ジークは「盗まれた」と、とぼけた言い訳をする。当然妻は「じゃあなんで警察に連絡しないの!?」と詰め寄るが、ジークは曖昧な返答を繰り返すばかり。事情を知っている観客には滑稽だと感じる場面である。
そう、この映画は一見シリアスな内容だと思いきや、南部ののんびりした景色のなかで思慮の足りない男たちが、隠蔽工作がバレないよう右往左往しているばかりのコメディ映画だったのだ。
なぜそれがすぐに分からないのかというと、ひとつは“人の死”というシリアスな事態を題材にしていること、そしてそれが異様に文学的な雰囲気の演出や映像で撮られているからだ。つまり本作は、一応はコメディ映画でありながら、よくある定型を無視した描き方がなされているということだ。では、なぜ本作はそのようないびつなバランスを選択しているのか。その答えは、本作の核心とも関係ある部分なので、慎重に後述していきたい。
本作には、構造的に非常に近い作品がある。それが、マーティン・マクドナー監督・脚本の『 スリー・ビルボード』(17)だ。マクドナー監督は、『セブン・サイコパス』(12)に代表されるように、英国出身作家ならではのシニカルなユーモアセンスと、知的で複雑な構成が持ち味である。
『スリー・ビルボード』予告
『スリー・ビルボード』は、ある女子学生がレイプされ殺害されるという、非常に痛ましいシリアスな事件が描かれ、そこから派生していく新たな事件を、やはり文学的で落ち着いたタッチで描いていく。この作品も、演出や題材は重々しいが、相反するユーモアが至るところに存在するのは確かなのだ。
このように、マクドナー監督はコメディを意図的にコメディではない表現と結びつけ、ジャンルを越境していくようなものを作り上げたのだ。そしてそれは、コーエン兄弟の『ミラーズ・クロッシング』(90)や『ノーカントリー』(07)など、やはりサスペンスやコメディを越境する奇妙な演出に通底するところがある。異様さや不思議な感覚をもたらすこれらの手法は、われわれ観客に安心できる道標を与えないことで、分かりやすい映画の楽しみ方を奪ってしまうが、代わりに新鮮で油断できない体験を提供するのである。