カカシを構成するものは何か?
日本を代表する旅人・寅さんを引き合いに出したが、先に述べたように彼とは違い、マックスとライオンには大いなる目的がある。そこへたどり着くまで、ふたりはどちらも欠けてはならない。もちろん、目的地にたどり着いてこそ、さらなる目的も見えてくるはずだ。
冒頭に“カカシは美しい!”という本作の劇中に登場するセリフを記したが、こんなキテレツな言葉を口にするのはとうぜんライオンの方である。彼いわく、カラスはカカシを恐れて田畑を荒らすのをやめるではなく、カカシに笑わされて「あの百姓はいいヤツだ」と考え、荒らすのをやめるのだという。
ではタイトルにある「Scarecrow(カカシ)」とは本作において、“ひょうきんさ”が売りのライオンを指しているのだろうか。いや、そんなことはない。ライオンの発言にマックスは反論している。それはおかしい──と。彼からすればカカシとは、やはりある種の恐怖を与える存在なのかもしれない。それは暴力によって自己を主張するマックスらしい捉え方なのだろう。
『スケアクロウ』(c)Photofest / Getty Images
映画界の大きな転換点となった、アメリカン・ニューシネマ期。この潮流には“暴力”が散見されるが、こればかりが何か/誰かを変えたわけではないだろう。こと私たちの社会においてはもちろんだ。そんな時代に本作が叫んだのが、“カカシは美しい!”──なのである。
つぎはぎだらけのカカシが美しく映るのかどうかは、それを目にする個人によるだろう。しかし、「もしかするとカラスたちは怯えて去っていったのではなく、笑って去っていったのかもしれない」という想像力と思考の転換は、何よりも大きな武器になるはずだ。そこに物質としての武器は要らない。
カカシは廃材でできている。彼らを構成しているものは何なのか。それは私たちの生活から出たものだ。彼らの内面は、その見た目からだけでは分からない。いくらひょうきん者に見えるライオンでも、彼を構成する情報をすべて推し測ることは難しい。
そこで必要とされるのが想像力だ。怒っているように見えるカカシが、じつは笑っているのかもしれないし、笑っているように見えるカカシは、じつは悲しんでいるのかもしれない。その実態を捉え、想像力をはたらかせる者にだけ、カカシの美しさは垣間見えるのかもしれない。その想像力を働かせる必要が、いま私たちには必要なのではないだろうか。
文: 折田侑駿
文筆家。1990年生まれ。主な守備範囲は、映画、演劇、俳優、文学、服飾、酒場など。映画の劇場パンフレットなどに多数寄稿のほか、映画トーク番組「活弁シネマ倶楽部」ではMCを務めている。敬愛する監督は増村保造、ダグラス・サーク。
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