喪失とダンス
ときにアントワーヌはダンス(踊り)をする。それは幼少期の頃からのことで、本人いわく、どうやら「自己流」らしい。自己流のダンス──これはつまり、“心のままに踊る”ということである。
さて、では人はどういう場面で踊りに興じるのか。「心が“躍る”」という慣用句が示すように、気持ちが高揚しているときがほとんどだろう。もちろん、スポーツとしてのダンスや、アートとしてのダンスもある。しかしこれらすべての起源は、ひとつの感情表現としてのダンスだ。
とはいえ、身体で表現されるその感情というものは千差万別。必ずしも喜びだとはかぎらない。ときには悲しみを表現するダンスもあるだろう。祝祭のためのダンスがあれば、哀悼の意を表するダンスもあるのだ。
劇中でアントワーヌは、二度も大きな喪失を経験している。一度目は幼い頃に憧れた理髪師の女性であり、二度目は最愛の人であるマチルドだ。彼は一度目の喪失以来、ある種の妄執に取りつかれていた男だともいえると思う。“髪結いの亭主になる”というアントワーヌの衝動は、この喪失によって拠り所を無くしてしまっていた。その結果、この「衝動」は「妄執」へと姿を変えていたのだ。幸いにもマチルドという存在に出会えたから良かったものの、これがなければどうなっていたことか。
『髪結いの亭主』(c)Photofest / Getty Images
このことを考えると、この映画の見え方は大きく変わってくる。大人になったアントワーヌはときおり踊るが、それはマチルドとともに過ごす幸福なひとときに対する「歓喜」の踊りであるのと同時に、かつて恋い焦がれた女性への「追悼」の踊りであるのかもしれないのだ。うがった見方だろうか。彼はあくまでも、“髪結いの亭主”になりたかったのではないか。
ラストシーンでもアントワーヌは踊る。ひとりの来客を前に、「床屋」内で踊る。彼にとってのアジールだが、そこにはもう愛するマチルドはいない。そしてアントワーヌはふと踊るのをやめてしまう。このときの踊りは、歓喜と追悼のどちらなのだろうか。ふとやめてしまうということは、喜びの感情を捨てるのと同時に、追悼するのもやめる行為のように思えてならない。つまり後者に関しては、“妻・マチルドの死を受け入れない”ということである。
こうして本作は幕となるが、おそらくアントワーヌはこの後もときに踊り、そしてふいにやめてしまうことだろう。彼は「床屋」という空間としてのアジールと脳内のアジールとを往還し、愛と追憶の日々を過ごしていくのだと思う。私がこの映画を忘れられなかった理由は、アントワーヌが絶えず脳内で踊り続けていたからなのかもしれない。
文: 折田侑駿
文筆家。1990年生まれ。主な守備範囲は、映画、演劇、俳優、文学、服飾、酒場など。映画の劇場パンフレットなどに多数寄稿のほか、映画トーク番組「活弁シネマ倶楽部」ではMCを務めている。敬愛する監督は増村保造、ダグラス・サーク。
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