知られざるマックス・パトキンの野球人生
“野球界の道化王子”ことマックス・パトキンもまた、実は元野球選手だった。1920年に貧しい家庭で育ったマックスは、150キロという速球の才能を買われアマチュアチームでプレー。シカゴ・ホワイトソックスと契約するも、コントロールに欠けるという理由で春季トレーニング中にトレードされてしまい、出場のないままマイナーリーグへ。しかし、時は第二次世界大戦中の1944年。マックスは海軍で兵役に就くこととなる。ハワイへ駐屯した彼は、海軍野球チームに参加。マックスにとって幸運だったのは、対戦相手となるチームの中に、同じく兵役に就いていた超有名メジャーリーガーがいたことだった。その人物とは、後にマリリン・モンローと結婚することにもなるジョー・ディマジオ。
投手としてジョー・ディマジオと対戦したマックスは、当然のごとくホームランを打たれ完敗。しかしその刹那、何を思ったのか、マックスはダイヤモンドを回るディマジオの姿を真似ながら、後方から彼を追いかけた。メジャーリーガーとの追いかけっこという“おふざけ”が観衆の爆笑を呼んだことは、“野球界の道化王子”誕生の瞬間だったのである。終戦後、マックスはマイナーリーグへ戻ったものの、腕の故障で引退を余儀なくされてしまう。引退後はコーチとして雇われることとなるのだが、物真似やダンスといったディマジオとの“おふざけ”を一塁コーチとして球場内で再現。その姿が話題となり、マックスのパフォーマンスを目当てに球場を訪れるファンが増加。観客動員への貢献が野球関係者の間でも噂となり、ジョー・ディマジオの推薦も後押しとなって、マックスはフリーランスの“野球道化師”となったのである。
『さよならゲーム』(c)Photofest / Getty Images
その後マックス・パトキンは、“野球道化師”として約50年間に渡って休むことなく、4,000以上の試合に出場。ニール・アームストロングが月面着陸するのを世界中が見守っていた時も、4人の観客を前にパフォーマンスをしていたという伝説まである。しかし、健康上の理由で1993年に引退。1999年に79歳で亡くなった時は、多くの野球選手や野球ファンが追悼した。マイナーリーグを描く上で、『さよならゲーム』にマックスが出演しているのはとても重要なことなのである。この映画に関わっている、監督、出演者、そして、野球界のレジェンド。アニーの「私は野球“教”の信者」という言葉ではじまる『さよならゲーム』という映画が、野球を愛で、そして野球を愛でた人々による“野球愛に溢れた映画”であるという由縁だ。
【出典】
・「秘められた野心 ケヴィン・コスナー物語」(シンコーミュージック) ケルバン・キャンディース著 小尾ちさほ・訳
・「The Clown Prince Baseball」Max Patkin・Stan Hochman・著
・ Society for American Baseball Reserch
・『さよならゲーム』劇場パンフレット
文: 松崎健夫
映画評論家。東京藝術大学大学院映像研究科映画専攻修了。テレビ・映画の撮影現場を経て、映画専門の執筆業に転向。『ぷらすと』『japanぐる~ヴ』などテレビ・ラジオ・ネット配信番組に出演中。『キネマ旬報』、『ELLE』、映画の劇場用パンフレットなどに多数寄稿。現在、キネマ旬報ベスト・テン選考委員、ELLEシネマ大賞、田辺・弁慶映画祭、京都国際映画祭クリエイターズ・ファクトリー部門の審査員を務めている。共著『現代映画用語事典』(キネマ旬報社)ほか。
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