2021.03.31
“信じること”というさらなる主題に託された希望
愛に迷う女・ヴァランティーヌと、愛を見失った男・ジョゼフ──言い換えれば、ヴァランティーヌは愛に不信の念を抱いている女であり、ジョゼフは愛を信じていない男である。彼らふたりの運命の線は混線から抜け出し、「愛への不信」という共通項によって、たちまち一本の線となる。先に述べているように、やはりふたりの出会いは必然的なものなのだ。こうして『青の愛』『白の愛』に続く「運命」と「愛」の物語がはじまるのだが、ここでさらに浮き上がってくるのが新たな主題。ふたりは“信じること”に関しての問題を抱えている。愛を信じること、他者を信じること──これは本作の主題のひとつとして、目を向けるべきものなのではないだろうか。
印象的なセリフがある。「人間はもっと寛容よ」というものだ。それはヴァランティーヌが、完全に人間不信に陥り心を閉ざしてしまっているジョゼフへと向ける言葉。しかし、果たして本当にそうだろうか? こと私たちの生きる現実の社会において、「人間は寛容である」と断言することは難しい。誰かから誰かへと向けられる期待、不安、嫉妬──その先に待ち受けているものが、ポジティブなものばかりでもないのは周知の事実だ。しかしながらヴァランティーヌの言葉は本作の文脈において、「人間は寛容であると“信じたい”」というものだろう。たしかに、他人が陰で何をしているのかは分からない。けれども、“信じてみたい”のだと。
「トリコロール三部作」予告
“信じること”のその先に、「博愛」はあるのだと思う。逆説的にいえば、「博愛=“すべてを包む無垢な愛”」の態度の第一歩は“信じること”なのではないだろうか。「運命」と「愛」を描いた「トリコロール三部作」の最終作で“信じること”の重要性を説いているのは、ひじょうに希望的だ。この希望を遺して、クシシュトフ・キェシロフスキ監督はこの世を去った。
『青の愛』『白の愛』、そして本作『赤の愛』──これら「トリコロール三部作」に見る「運命」と「愛」を信じた観客には、三作を“しめくくる”ドラマチックなクライマックスが待ち受けていることだろう。そこに見られるのは、このうえない“すべてを包む無垢な愛”のはずである。
文:折田侑駿
文筆家。1990年生まれ。主な守備範囲は、映画、演劇、俳優、文学、服飾、酒場など。映画の劇場パンフレットなどに多数寄稿のほか、映画トーク番組「活弁シネマ倶楽部」ではMCを務めている。敬愛する監督は増村保造、ダグラス・サーク。
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