岡崎京子と、ゴダールと、小津安二郎
さて、ここからは単純に「映画化」ということだけではなく、岡崎京子と映画の結びつき、それ自体について考えていきたい。というのも、岡崎漫画の特徴として、あらゆるカルチャーからの引用、サンプリングの豊富さという側面があり、映画ネタもたくさん詰めこまれているからだ。
もちろん映画に対する審美眼や批評能力も抜群に高く、90年代は新作映画の宣伝塔、オピニオン・リーダーとして引っ張りだこであった。例えば岡崎が寄稿・登場した劇場用パンフレットも数多く、筆者的にはガス・ヴァン・サント監督の『ドラッグストア・カウボーイ』(1990年日本公開)での「マイ・プライベート・トリップ~快楽の限界。」と題された浜崎貴司(FLYING KIDSのヴォーカル)との対談記事や、『ゴダールの決別』(1994年日本公開)の「JLGの孤独」というイラスト付きエッセイなどが特に印象に残っている。
そのつながりで言うと、岡崎漫画における映画のサンプリングソースの中で、最も目立つのはジャン=リュック・ゴダールだろう。
『万事快調』という1972年作品(日本公開は1996年)と同じタイトルを冠した短篇連作もあるが(単行本『UNTITLED』収録)、とりわけ影響が顕著なのは1989年の傑作『pink』だ。ナレーション的に使われる「密告者は密告する」「ウソつきはウソをつく」など『勝手にしやがれ』(1959年)の有名な言い回しのアレンジ(第13章「王女様は労働する」)もあれば、『女と男のいる舗道』(1962年)のワンシーンを模した扉絵(第19章「愛と暴力」)もある。さらにあとがきでは「すべての仕事は売春である」というゴダールの言葉を引用しており、これは作品全体の主題にも絡んでくる。
『リバーズ・エッジ』© 2018「リバーズ・エッジ」製作委員会/岡崎京子・宝島社
さらにもうひとり、やや意外に思われるかもしれないが、小津安二郎も重要なキーパーソンだ。『乙女ちゃん』という1994年の短編(単行本『エンド・オブ・ザ・ワールド』収録)では、縁談話をもちかけられた三十路手前の娘と、退職後の寡黙な父親をメインにした家族の肖像が、屋内のローアングルや数名が同じ方向を向いて佇む構図などを駆使して淡々と描かれる。つまり「小津調」のパロディを漫画でやってしまった快作なのだ。
先述した『万事快調』の第一話も小津の要素が認められるホームドラマ。さらに小ネタで言うと、1993年の傑作『東京ガールズブラボー』の中に「“東京はもうやだよ”と『東京景色』の山田五十鈴みたく思った」という記述がある。これは正しくは『東京暮色』(1957年)のことを指すのだろう。
ゴダールと岡崎京子という固有名詞は、ファンの間でも容易にイメージがつながるはずだ。特に1960年代までの時代風俗と濃厚に絡み合いながら美意識の高いアヴァンポップを創出していた初期コダールは、1980年代以降、同様の先鋭性とおしゃれ感を両立させていた岡崎と親和性が高い。だが一方の小津に関しては、もっと根っ子の部分で共通性がある。時代ごとの「東京物語」――諦念と優しさの入り交じったクールな視座から、都市生活者の日常を切り取ってきた小津と岡崎は、精神的な父(いや、祖父か)と娘のような関係にも思えるのである。