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『日の名残り』誰の人生にもたとえられる、アンソニー・ホプキンスが体現する“滅私奉公”的生き方
過去の時間への旅
冒頭場面は1950年代。主人公のスティーヴンスはダーリントン卿の邸宅で執事として“滅私奉公”的な生き方を貫いてきたが、かつて屋敷に務めていた女中頭のミス・ケントンから7年ぶりに手紙をもらい、彼女と20年ぶりに再会するため、休暇をとってひとり旅に出る。
20年前。スティーヴンスの前に現れたケントンはとても有能で、スティーヴンスと共に数々の仕事をうまくこなしていた。そして、ちょっと気難しいスティーヴンスにひそかに好意を抱いているが、彼はそれに気づかない。たとえ気づいていたとしても、彼は自分の感情を優先させる生き方などできない。屋敷の主人であるダーリントン卿に奉仕することこそが彼の喜びだからだ。仕事に忠実すぎる彼は多忙のあまり、同じ屋敷で働く父親の臨終の席にも立ちあうことができない(切ない場面だ)。
原作小説では主人公が物語の語り部で、彼の視点で物語が進む。一方、映画は彼のナレーション形式ではないため、スティーヴンス役のホプキンスの演技を通じて、その感情を読み取ることになる。執事として感情を表に出さぬ演技をしながらも、見る人には内面の感情を伝える演技を見せなくてはいけない。そんな難役だ。一方、エマ・トンプソン演じる女中頭のミス・ケントンはきびきびしていてスティーヴンスには思ったことをはっきり言う。動のトンプソンと静のホプキンスのバランスが見事だ。
『日の名残り』©1993 COLUMBIA PICTURES INDUSTRIES, INC. ALL RIGHTS RESERVED.
ちなみに原作小説(中公文庫刊)のあとがきによると、この小説の名翻訳者、土屋政雄氏は翻訳する時、『バットマン』(89、ティム・バートン監督)に登場する執事役のマイケル・ガフをモデルとして頭に描きながら翻訳を進めたという。小説版はスティーヴンスもミス・ケントンももっと控えめな印象だが、映画版は少し毒のある男優と女優の個性がぶつかり合うことで、よりドラマティックな印象だ。
中盤で忘れがたい場面はスティーヴンスがこっそり読んでいる本のタイトルを知りたくて、ミス・ケントンが彼に少しずつ近づく場面だろう。秘められたふたりの恋愛感情がじわじわとわきあがるような名シーンとなっている。また、後半、ミス・ケントンが特に好きでもないベンとの結婚を決意し、泣いているところにスティーヴンスが現れる場面がある。原作はもっとあっさり描写されている場面だが、映画版ではふたりのすれ違いが、残酷な演出で描かれる。どこか淡い印象の小説とは異なり、全体的にふたりの心の奥の葛藤が克明に描写されていく。
マイク・ニコルズ監督、ハロルド・ピンター脚本の映画化が進行していた時は、ジェレミー・アイアンズとメリル・ストリープの共演の話もあったそうだが(ピンター脚本の『フランス軍中尉の女』(81)でもふたりは共演)、完成した映画を見てしまうとホプキンスとトンプソン以外のキャストは考えられない。最後の夕暮れ時の20年ぶりの再会の場面も、本当に胸にこたえる名場面になっている。人間の失われた時間は戻ってくるのか? その問いに対するホロ苦い答えがふたりの名演を通じて読み取れる。