(C) 1988 Outlaw Productions. All Rights Reserved.
『セックスと嘘とビデオテープ』カメラを持った天使/悪魔が生み出す“出会いによる変化”
2021.05.13
“グレアム=異物”とは何なのか?
“グレアム=異物”とは、いったい何なのだろうか。彼はつねに黒いシャツを着用している。9年ぶりに再会したジョンからすれば、この彼の出で立ちは喪服のように映り、どうにも奇妙なものに思えるらしい。喪服といえば基本、弔意を示す際に身につけるものである。しかしこの物語の中では、誰ひとりとして死にはしない。“死”を表象するものがあるとすれば、それはアンとジョンとシンシアのいびつな関係であり、グレアム自身だろう。そう、変化することによって、過去の自分たちを葬るのである。
グレアムはかつての自分のことを「病的な嘘つき」だといい、現在の自分はほとんど別人に近いのだと口にしている。ジョンが驚くのも無理はないのかもしれない。グレアムは自らが他者に影響を与えてしまうことを極端に恐れ、そうならないように生き方を変えてきたのだという。しかし彼の目論見は成功していない。
グレアムはひょんなことから交流を持つことになったシンシアに、そしてアンにもカメラを向け、その内容を例のビデオテープに収めている。ここでは撮る/撮られる、語る/語らせるという関係性が生まれ、互いに秘密を交換し合う。ではこのビデオテープに収められているものに、現実の欺瞞を払拭する真実のような何かがあるのかといえば、そういうわけではないのだと思う。
『セックスと嘘とビデオテープ』(C) 1988 Outlaw Productions. All Rights Reserved.
その内容は「性」という、ひじょうにプライベートな事柄なわけだが、それがその人のすべてではない。あくまで特定の個人の、ある一面でしかないのではないだろうか。これはビデオが真実を暴き関係性を崩壊(=変化)させたのではなく、人間同士が密に触れ合った結果だろう。
グレアムの介入による人間関係の変化を図形に喩えたが、コーヒーに入れるミルクだと考えてみても面白いと思う。コーヒーにたったの一滴でもミルクを落とせば、それはもう純粋なコーヒーではない。それらは最初、うまくは溶け合わず、コーヒーにとって一滴のミルクは“異物”である。しかし、しだいにミルクは広がり、馴染み、気がつけばコーヒーではなく、そこには“コーヒーのような何か”が生まれることになる。グレアムとはまさにこのような存在なのではないか。この変化が果たして良いものなのか、そうでないのかは分からない。きちんと味わってみるべきである。
もちろん、アン、ジョン、シンシアを変化させたグレアム自身も変化する。一滴のミルクはコーヒーに落ちた時点で、それはもう純粋なミルクではない。彼は9年前と比べて自分の人生を変えられた気でいたようだが、ここでの他者との出会いによって、また大きく変えられてしまうのだ。元々あったものを壊し、新しい何か生み出すグレアムとは、カメラを持った天使なのか。悪魔なのか。ここでいう“何か”とは、再三にわたって述べてきた関係性のことだ。
いずれにせよ、私たちと同じく不完全な存在であることは間違いない。自分だけが正常で、他者だけが異常だなどと思ってはならないだろう。誰もが異常(あるいは、“正常ではない”)という認識から、真の人間関係がはじまるのだと思う。
文:折田侑駿
文筆家。1990年生まれ。主な守備範囲は、映画、演劇、俳優、文学、服飾、酒場など。映画の劇場パンフレットなどに多数寄稿のほか、映画トーク番組「活弁シネマ倶楽部」ではMCを務めている。敬愛する監督は増村保造、ダグラス・サーク。
『セックスと嘘とビデオテープ』
ブルーレイ ¥4,980(税込)/DVD ¥3,990(税込)
発売・販売元:(株)ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント
(C) 1988 Outlaw Productions. All Rights Reserved.