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『アーミー・オブ・ザ・デッド』配信オリジナルのゾンビ大作は、このジャンルに何をもたらすのか?

(c)NETFLIX

『アーミー・オブ・ザ・デッド』配信オリジナルのゾンビ大作は、このジャンルに何をもたらすのか?

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ゾンビ映画としての個性化と、グローバリズムの幻像



 ゾンビが蔓延する危険地帯に、放置された巨額の金を奪いにいくという設定は、韓国ゾンビパニック『新 感染半島 ファイナル・ステージ』(20)を連想させる。といっても、『アーミー・オブ・ザ・デッド』の企画は今から10年前にメジャースタジオで開発が進んでおり、設定の近似は偶然の一致にすぎない。むしろ同じシチェーションでありながら、こうもアプローチが違うのかと、米韓それぞれのクリエーターの個性を顕在化させる。


 なによりスナイダー監督といえば、商業長編デビュー作がゾンビ映画(2004年製作の『ドーン・オブ・ザ・デッド』)であり、同作はゾンビジャンルの頂点に立つカルトクラシック『ゾンビ』(78)をリメイクしたものだ。彼は本作で、のろのろと歩くのがデフォルトだったゾンビに「走る」という新たな性質を付与させ、ダイナミックな映像表現とスリリングな展開をもたらすことに成功している。


 このようなアップデートという点において、今回もゾンビは性質をさらに発展させている。事実、今回の『アーミー・オブ・ザ・デッド』は、ゼウスと名付けられた王ゾンビのもと、知性を持つゾンビが軍隊のように組織化され、タイトルを象徴する驚異の進化を遂げているのだ。それはもはやゾンビとカテゴライズできない気もするが、設定を更新していくことで物語が拡張されていく楽しさが今回の『アーミー・オブ・ザ・デッド』にはある。戦闘は過激化し、ビジュアルはより派手な視覚性を展開する。そして知性と威力を兼ね備えたゾンビは金以上の存在として人間どうしの諍いを生み、観る者をカオスな世界へと否応なく巻き込んでいく。



『アーミー・オブ・ザ・デッド』ザック・スナイダー監督 (c)CLAY ENOS/NETFLIX


 新たな設定付けを武器に、オリジナルのゾンビワールドを我が物にしたスナイダー。なによりそれは『ドーン・オブ・ザ・デッド』に厳しい見解を示した『ゾンビ』の監督ジョージ・A・ロメロに対して一矢報いるものとなった。ロメロは生前、『ドーン・オブ・ザ・デッド』に関してこのような感想を筆者に語っている。


 「ザックはいいアクション映画監督だと思うよ。ただ『ゾンビ』の存在意義がもう無いから、リメイクする理由がよくわからない。映画は冒頭10~20分くらいまでのアクションは良かったんだけど、どちらかというとビデオゲームを見ているような感じで、好きかと言われれば、あまり好きじゃないね(笑)。ネタも古いしね。自分の作った作品は自分のものであって、人が模倣したいとかリメイクしたいっていうのは別に構わないんだけど、その作られた作品に関してはケアしないよ」(*)


 ロメロは、『ゾンビ』が郊外型ショッピングモールが台頭してきた同時代(1970年代後半)のものであり、それは消費社会への警鐘を発するものだとして、リメイクが時代遅れで自発性がないことを暗に指摘している。社会批判の強い側面を持つ『ゾンビ』に比べ、スナイダーのゾンビ映画は知性と引き換えに、動的で受動型な映画的興奮を前面に押し出しているのは否めない。


 それでもあえてロメロの流儀にしたがい『アーミー・オブ・ザ・デッド』に同時代性を見出すとするなら、それは壁で隔離した街と、ゾンビの王国に干渉しようとする政府側の姿勢に、かろうじてトランプ前大統領の掲げてきたグローバリズムの幻像が感じられるかもしれない。おしなべてゾンビ映画がアイロニカルに目配りする必要などないかもしれないが、ブラックにオチの利いた結末を含め、同作がそういった思慮と無縁だと断じるのも惜しい気がする。


(*)『ダイアリー・オブ・ザ・デッド』プロモーション時における電話インタビューにて

2008年9月19日/於:プレシディオ本社




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