ミヒャエル・ハネケの切なる思い
本作では、“老い”と、その果てにある“死”が描かれるのだが、それが主題ではないと、ハネケは答えている。彼は過去に、自身を育ててくれた叔母の自殺という悲痛な体験をし、それが本作の主題を考えるきっかけになったと「ミヒャエル・ハネケの映画術──彼自身によるハネケ」で語っている。
そして、そこにはこう記されている。「脚本の主要なテーマは死でも老いでもなく、愛する人の苦しみにどう対処するかです」──重度のリューマチに苦しむ叔母は、かねてよりハネケに自殺の手伝いを願っていたようだが、もちろん彼自身そんなことはできない。ところがある日、彼女が睡眠薬を飲んで自殺を試みた。すんでのところでハネケが到着し、救うことができたのだが、目を覚ました叔母は彼を責めたようだ。彼女の願いは死ぬことなのである。一度目は未遂に終わったものの、二度目はハネケが映画祭に出かけていた際に起こった。叔母は彼の留守中に、自身の願いを叶えたのだ。
これはあくまでミヒャエル・ハネケという一個人の体験だが、ここまで記してしまえば、本作『愛、アムール』がどのようなものであるのか未見の方でも想像がつくことだろう。ハネケと叔母の関係が、ジョルジュとアンヌの関係に転写されている。
『愛、アムール』(c)Photofest / Getty Images
ハネケは暴力にまつわる映画を手がける監督ではあるものの、“その瞬間”を捉えることはほとんどない。しかしながら本作では“その瞬間”が、ジョルジュの最後の決断に現出しているように思う。これは見方によっては“暴力”だと映るに違いないだろう。だがやはり、「愛」があるからこそ成し得たものだと思いたい。ここが本作の賛否の分かれるところだ。
『ドキュメンタリー 映画監督ミヒャエル・ハネケ』において、この世でもっとも大切なものは「思いやり」だと、ハネケは口にしている。“あのハネケ”が、である。しかし思い返してみれば、彼の作品のすべてに通底して見られるのは、コミュニケーションの問題だ。たしかに、ディスコミュニケーションや、その結果として現れる暴力などに対抗できるものは、それらの対極にある「思いやり」なのかもしれない。そう考えると、ハネケはこれまでディスコミュニケーションを描くことによって、同時に「思いやり」の大切さを描き続けてきたともいえる。「思いやり」とは、「愛」のひとつの表現だ。ハネケにとって「愛」を描くためには、暴力の描写が必要だったのである。その究極形態が、本作『愛、アムール』なのだ。
文:折田侑駿
文筆家。1990年生まれ。主な守備範囲は、映画、演劇、俳優、文学、服飾、酒場など。映画の劇場パンフレットなどに多数寄稿のほか、映画トーク番組「活弁シネマ倶楽部」ではMCを務めている。敬愛する監督は増村保造、ダグラス・サーク。
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