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『返校 言葉が消えた日』ゲームの本質を凝縮、メディアを超えた翻案の可能性

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『返校 言葉が消えた日』ゲームの本質を凝縮、メディアを超えた翻案の可能性

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台湾史の闇、「白色テロ時代」とは



 そもそも、ゲーム「返校 -Detention-」はなぜ高い評価を受けたのか。それは学校を舞台とする物語の背景に台湾の歴史を、しかもとりわけデリケートな歴史の暗部を描いたからだ。ファン・レイシンの物語には、抜き差しならない歴史の重みがのしかかってくる。あらかじめ、その背景を押さえておくことにしよう。


 もともと台湾という土地は、歴史的に複雑なアイデンティティを持つ場所だ。日清戦争後は日本の植民地だったが、第二次世界大戦で日本軍が降伏すると、中国本土から人々がやってきて(台湾では「外省人」と呼ばれる)、蒋介石率いる中国国民党が政権を握った。もっとも、それ以前から台湾に住んでいた人々(「本省人」)が困惑したのも無理はない。なぜなら国民党は、本省人が日本の思想や教育を受けてきたことを「奴隷化」だと言ってのけ、日本語を廃止して中国語を強制、さらには日本文化の一掃を呼びかけたのである。しかし長きにわたる植民地時代を経て、現実的にも、また感情的にも、本省人が日本文化を捨て去ることは難しかった。さらに外省人が政府の要職を占めるや、政治の腐敗は一気に進み、庶民には経済的な苦境も訪れたのである。



『返校 言葉が消えた日』ⓒ 1 Production Film Co. ALL RIGHTS RESERVED.


 本省人と外省人の対立が深まる中、1947年2月27日に事件が起こった。闇タバコ売りの女性が取締員から暴力を振るわれ、民衆がこれに抗議したところ、取締員が発砲。歩行者の一人が銃弾に当たって死亡したのだ。市民は警察に対して取締員の引き渡しを求めたが、しかるべき対応はなされず、翌28日には大規模なデモが開始された。ところが、人々の要求は認められるどころか、大勢のデモ隊に兵士たちが発砲したことで多数の死傷者が出る。これをきっかけに、暴徒と化した本省人が外省人を攻撃するなど、激しい暴動が台湾全島にたちまち広がっていった。これに対して政府は、「治安回復」という名目のもと、ほとんど報復的に人々を捕らえて殺害するという形で鎮圧に出たのである。この「二・二八事件」の背景には共産党の煽動があった、というのが政府の見立てだった。


 事件から2年後の1949年、国民党政府は戒厳令を敷いた。政府は強力な管理体制のもと、台湾に流入する人々から共産党のスパイを排除するため、恐ろしい政治的弾圧を繰り返すようになる。1949年から1960年にかけて、政府は約1万人を逮捕し(現実にはそのうち9千人以上が冤罪だったとされる)、そのうち約2千人を処刑。でっち上げの粛清の嵐が吹き荒れる中、国民は相互監視と告発を余儀なくされた。逮捕された者は恐ろしい拷問を受け、苦痛のあまり無実の罪を認めるばかりか、同じく無実の友人や見知らぬ人をも政府に差し出すようになる。この“白色テロ時代”は、史上最長と言われる戒厳令が解除された1987年まで続いた。





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