『悲情城市』あらすじ
1945年8月15日台湾が51年にわたる日本統治から解放された日から1947年に起こった本省人と外省人が争う〈二・二八事件〉を中心に、ある一家の変遷をとおして台湾の激動の時代を描く大河ドラマ。
Index
- 本能で映画作りを学んでいった侯孝賢(ホウ・シャオシェン)
- 『悲情城市』はホウ・シャオシェンの初期集大成だった
- 二・二八事件を描いた初の台湾映画
- 固定ショットと長回しを多用した撮影スタイル
- 台湾ニューシネマの終焉
本能で映画作りを学んでいった侯孝賢(ホウ・シャオシェン)
先日、『侯孝賢(ホウ・シャオシェン)と私の台湾ニューシネマ』という本が刊行された。著者は、台湾の小説家で脚本家でもある朱天文(チュー・ティエンウェン)。今や台湾を代表する巨匠監督と朱天文が出会ったのは、1982年。彼女が書いた小説を映画化するため、ホウ・シャオシェンが共同脚本を申し出たことから始まった。台北の珈琲館で顔をあわせたふたりは、朱天文の小説をもとに『少年』(陳坤厚監督、83年)の脚本を手がけ、以降18作品にもおよぶ映画を一緒につくる。
朱天文は、ホウ・シャオシェンは「映画を撮る技法を知らないまま、撮り始めた」人だという。「彼はまず本能を頼りに創作し、その後やっと少しずつ自分の芸術のセンスをどうやって磨いていくかを学び、時間をかけて一作ずつより豊かな作品にしていった」。エドワード・ヤンをはじめ、外国で映画を学び台湾で実作を始めた同世代の仲間とは異なり、何もわからないまま国産映画の現場に飛び込み、一から作家性を獲得していったのが、ホウ・シャオシェンという映画作家なのだ。
実際、ホウ・シャオシェンの初期作を続けて見れば、その作風が一作ごとに洗練され、研ぎ澄まされていく様がよくわかる。初監督作『ステキな彼女』(80)と、続く『風が踊る』(81)は、当時の大人気だったアイドル二人を主演に据え、歌謡曲をふんだんに使ったラブコメディ。そのすぐ後に手がけたオムニバス映画『坊やの人形』(83)は、台湾ニューシネマの幕開けを告げた作品として知られる。そして自伝的作品『風櫃の少年』(83)。この映画によってホウ・シャオシェンが作風を確立したことは、監督自身も認めている。