1. CINEMORE(シネモア)
  2. 映画
  3. ドライブ・マイ・カー
  4. 『ドライブ・マイ・カー』対話の“壁”を越える、「言葉」への知的探求
『ドライブ・マイ・カー』対話の“壁”を越える、「言葉」への知的探求

(C)2021『ドライブ・マイ・カー』製作委員会

『ドライブ・マイ・カー』対話の“壁”を越える、「言葉」への知的探求

PAGES


多種多様な「他者との交流の“壁”」を人物に付加



 『ドライブ・マイ・カー』の中には、目に見えない“対話の壁”が乱立している。主要なものでは、やはり音を失った家福の物語が挙げられるだろう。「死」によって妻との対話を絶たれた彼は、テープに遺った彼女の声を聴くことしかできない。しかもその声は、「ワーニャ伯父さん」のセリフを覚え、練習するためのもの。音の気持ちが吐露されているものではない。


 また、ふたりの間にはある“問題”があり、音は生前、(おそらく複数の相手と)不倫をしていた。家福はそのことを知りながら「相手は誰か」「なぜそんなことをしたのか」と問いただすことはせず、自分が妻の不貞を知っていることも言わず、コミュニケーション不全のまま音は旅立ってしまう。家福の心には後悔と「妻はどんな人物だったのか、何を考えていたのか」という疑問が宙ぶらりんのまま、2年後の現在も生きている。


 彼のドライバーを務めることになるみさきは、故郷を出てきた理由にコミュニケーション不全が結びついている。母親と健全な関係を築くことができず、そのことが彼女の心にわだかまりを残しているのだ。高槻は人との距離感がうまくつかめず、怒りを自制できなかったり、他者を理解する手段として身体を重ねようとする。彼もまた、コミュニケーション不全を抱えた人物だ。



『ドライブ・マイ・カー』(C)2021『ドライブ・マイ・カー』製作委員会


 そしてここに、演劇祭のスタッフである韓国出身のユンス(ジン・デヨン)や、家福の舞台に出演するユナ(パク・ユリム)が絡んでいく。ユナは韓国手話を使って他者とコミュニケーションを図るため、家福が彼女とコミュニケーションを図る場合、韓国手話を日本語に訳してもらい、伝え聞くという複数のステップを要する。家福の演劇は、それぞれの話者が母国語で話すという形式、計9つの多言語で構成されており、出演する他のキャストもそれぞれにルーツが異なる。


 また、「ワーニャ伯父さん」「ゴドーを待ちながら」もコミュニケーション不全がキーとなった作品だ。「ワーニャ伯父さん」はそれぞれの登場人物に悲劇が訪れるが、同時に「本当にすべてが回避できなかったのか?」という疑問も浮かぶのではないか。ある種、円滑なコミュニケーションの喪失によって、不幸が伝播していく物語といえる。「ゴドーを待ちながら」は言うまでもなく、会話のトピックであるゴドーとのコミュニケーションが成立しない(この特徴は、映画『桐島、部活やめるってよ』(12)等にも受け継がれている)。


 「女のいない男たち」というタイトルの通り、原作の時点でそれぞれの短編には「不在」とそれに伴う「対話の消失」が横たわっているのだが、濱口監督はその要素をより拡張・深化させた印象だ。このように、『ドライブ・マイ・カー』はそれぞれが内包する「コミュニケーションのハードル」をきっちりと提示したうえで、どう解消されていくのかを見つめていく。




PAGES

この記事をシェア

メールマガジン登録
  1. CINEMORE(シネモア)
  2. 映画
  3. ドライブ・マイ・カー
  4. 『ドライブ・マイ・カー』対話の“壁”を越える、「言葉」への知的探求