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『ドライブ・マイ・カー』対話の“壁”を越える、「言葉」への知的探求

(C)2021『ドライブ・マイ・カー』製作委員会

『ドライブ・マイ・カー』対話の“壁”を越える、「言葉」への知的探求

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他者との交流に「物語」を媒介とする世界



 冒頭に『ドライブ・マイ・カー』は知性と真摯さの映画と述べたが、「コミュニケーション不全」に対して一つひとつ解答を示していく過程も、滑らかで丁寧。徒に端折ることなく、本作は179分をかけてそれぞれの人生と向き合っていく。


 家福は、音との心の距離、その断絶をテープの声を通し、間接的な“対話”を行っていく過程のなかで解消させていく。音が吹き込んだのは、家福が演じる役の相手役のセリフ。つまり「ワーニャ伯父さん」という作品を介し、そこには対話が生まれる。見え方としては一方通行かもしれないが、変わらない音の声に接し続けることで家福は自身の変化に気付いていくことにもなる。


 また、家福と高槻がそれぞれに知っている音について語ることも、理解へとつながっていく。ここにも、脚本家である彼女が話す「物語」とのリンクが張られている。家福は、様々な「物語」を介して音とコミュニケーションを図っていくのだ。さらに言えば、この関係性は役者という存在そのものとも呼応している。


 役者と脚本家の間には「物語」が横たわり、「物語」があることで役者は“言葉”を手に入れる。さらには、我々観客との間にも「物語」が介在しており、もっといえば本作は劇中で演劇を作っていく=「物語」を構築していくことで各々が交流を図る。そうしてマトリョーシカのように「物語」が重なっていき、観客はそのさまを追体験する。そして、先ほど述べた通り観賞行為そのものが「物語」を媒介にした作り手や登場人物との交流であり、多層的なメタ的な構造にもなっている。様々な局面で、現実(リアル)と物語(フィクション)がオーバーラップしていくのだ。



『ドライブ・マイ・カー』(C)2021『ドライブ・マイ・カー』製作委員会


 また、「間に何かを挟むことで対話が成立する」構造は、家福と音だけではない。家福と高槻は音の思い出を語ることで相互理解を深め、家福とみさきは「車」という場を介して静かに歩み寄っていく。彼女の滑らかな運転が家福の琴線に触れ、やがて拠り所となっていく流れは本作の核のひとつでもあり、実に美しい。


 同時に、本作が持つ「舞台」としての要素も、車中というシチュエーションはカバーしており、興味深いところ。トム・ハーディが一人芝居に挑戦した『オン・ザ・ハイウェイ その夜、86分』(13)や濱口監督の師である黒沢清監督の作品に見られるように、車中と演劇的要素は「ワンシチュエーション」という意味でも非常に相性がよい。この辺りにも、緻密な計算が行き届いており、巧さが光る。


 『ドライブ・マイ・カー』は、一人の男が喪失感から立ち直っていくさまを描いた人間ドラマではあるのだが、どのシーンを切り取っても、目に映るものだけで完結しない。全ての画面が、何かしらの隠喩になっているのだ。だからこそ、観終えた後に胸にこみあげる感慨が想定以上であり、多くの鑑賞者の心を捉えて離さないのだろう。


 また、濱口監督のイズムは、音や高槻の人物像にも感じられる。ふたりからは、『寝ても覚めても』で描かれたように「冷静な判断ができないからこそ人間なのだ」というメッセージが浮かび上がってくる。同時に、ふたりに翻弄される家福が、「わからないままでいい」と思えるようになる気持ちのグラデーションも見事だ。紋切り型の人物造形を行わず、間違いすらも人の本質として抱きしめる濱口監督の目線は、静謐な優しさに満ちている。




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