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『ドライブ・マイ・カー』対話の“壁”を越える、「言葉」への知的探求

(C)2021『ドライブ・マイ・カー』製作委員会

『ドライブ・マイ・カー』対話の“壁”を越える、「言葉」への知的探求

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「言葉」を解体し、再構築する演劇的方法論



 他者のことは、きっと完璧にはわからない。ただ、わかりたいと願う想いは止められない。その狭間でもがく人々を、肯定する――。『ドライブ・マイ・カー』は人と人が歩み寄ろうとするさまを、「演劇」「文学」「映画」等の芸術の調べにのせて見つめていく。


 そしてまた、本作の制作過程も極めて真摯な姿勢が感じられるものだったという。劇中では「感情をこめずにセリフを発することで、言葉を自分の中に落とし込んでいく」という稽古風景が描かれるが、これはアカデミックなスタイルを持つ演劇集団において往々にして採用されているもの。本作では制作にあたって「地点」「チェルフィッチュ」といった劇団に取材を行っているが、「なるほど」と思えるチョイスだ。


 「地点」はチェーホフやドストエフスキーのテキストを、独自の抑揚や発語で表現。我々が知っている言葉を解体し、物質のように陳列させていく。「チェルフィッチュ」においては、若者の喋り言葉を借りた、ハイパーな日本語が展開。独り言のような大量のセリフの中で、主語はズラされ、役者と役が溶け合い、フィクションともリアルともつかぬ世界が立ち上がっていく。両者ともに、言語と身体のズレを歪なバランスで提示する方法論が特徴的だ。


地点『罪と罰』予告動画


 ここで、濱口監督がそもそも「ドライブ・マイ・カー」に惹かれた要素とのつながりが見えてくる。それは「演技ではない言葉・声が、どうやったら出てくるのか」だ。小説の中で描かれたことを、映画という動作の連続、俳優の肉体において表現せねばならない。この領域にたどり着くためには、言葉そのものを深いレベルで“理解”する必要性が生じる。


 巨匠たちの遺した物語を声という“音”にまで分解し、声として発することで後から意味がついてくるような「地点」や、ハイパーリアルな領域にまで日常会話を進化させてしまい、演劇の概念を崩してしまう「チェルフィッチュ」とアプローチは違えど、着眼点には重なるところがある。



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