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『ドライブ・マイ・カー』対話の“壁”を越える、「言葉」への知的探求

(C)2021『ドライブ・マイ・カー』製作委員会

『ドライブ・マイ・カー』対話の“壁”を越える、「言葉」への知的探求

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言葉への徹底的な探求が、「言霊」をもたらす



 俳優が発するセリフである、という前提に立ちながら、「これはセリフとは感じられない」と観る者が“錯覚”するまでに高められた言葉。それを成しうるため、『ドライブ・マイ・カー』では、「本読み」に多くの時間が割かれた。ここでいう「本読み」は、感情をこめずに淡々と台本を声に出して読んでいくもの。


 西島秀俊によれば、本読みを繰り返す中で日々テキストはアップデートされていったそう。霧島れいかは「スピード感や強弱に意識を置いていた」といい、岡田将生は「撮影した後で『同じシーンの本読みをしよう』と言われて驚いた」と語っており、とかく言葉そのものと愚直に向き合い続けたことがわかる。また、家福と音の過去の出来事もテキストとして用意されているなど、映画では描かれない部分も情報として渡され、その部分の本読みも行ったのだとか。



『ドライブ・マイ・カー』(C)2021『ドライブ・マイ・カー』製作委員会


 セリフをセリフとしてでなく、登場人物の中から生まれる「演技ではない言葉・声」にまで高めるために一切の労を惜しまなかった濱口監督。その努力は、先に述べた「コミュニケーション不全を解消しようとする」登場人物の姿にも重なる。ここにもまた、入れ子構造が効いているわけだ。西島は「『、』か『。』の違いで、全く変わってくる」と振り返っており、濱口監督の言葉に対する畏敬の念は、神格化にも近い。


 それ故に、『ドライブ・マイ・カー』では、一つひとつのセリフが祝詞のように響く。寡黙なみさきが印象的だが、彼女がぽつぽつと発する言葉は、一切感情的ではないにもかかわらず、こちらの感情を驚くほど引きずり出してくるのだ。三浦透子の演技を超えた演技に感服させられるが、終盤に用意された岡田将生の見せ場は、言葉という容れ物に収まりきらない“何か”がたぎっており、また別ベクトルで凄味を感じさせる。


 言葉という不確かなものに三顧の礼を尽くし、「言霊」を宿らせるまでに純度を高めた濱口監督と俳優陣。その姿を映しとった、スタッフたち。日本語圏はおろか、言語が異なる海外でも感動を呼び起こした、つまり「言葉の壁を越え、届いた」背景には、どこまでも細やかに、粘り強く言葉を信じ続けた作り手たちの熱意があったのだ。



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取材・文:SYO

1987年生。東京学芸大学卒業後、映画雑誌編集プロダクション・映画情報サイト勤務を経て映画ライター/編集者に。インタビュー・レビュー・コラム・イベント出演・推薦コメント等、幅広く手がける。「CINEMORE」 「シネマカフェ」 「装苑」「FRIDAYデジタル」「CREA」「BRUTUS」等に寄稿。Twitter「syocinema



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『ドライブ・マイ・カー』

8/20(金)よりTOHOシネマズ日比谷ほか全国ロードショー

(C)2021『ドライブ・マイ・カー』製作委員会

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