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『トムボーイ』セリーヌ・シアマが紡ぐ、まだ見ぬ人生への連帯

© Hold-Up Films & Productions/ Lilies Films / Arte France Cinéma 2011

『トムボーイ』セリーヌ・シアマが紡ぐ、まだ見ぬ人生への連帯

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決定性から遠く離れて



 『トムボーイ』において、”男の子のふりをする”ロール/ミカエル(ゾエ・エラン)は、周りの男の子をどう見るか、そして自身がどう見られているかを、注意深く観察している。この観察が主人公による未知なる世界への挑戦、小さな冒険映画として結実していくところに、映画作家セリーヌ・シアマによる作劇上の戦略がある。


 『トムボーイ』のロール/ミカエルは、性別のコードに、表象上の流動性を保っている。ここでは、ロール/ミカエルがどうなりたいのかという目的よりも、どのような行動をとったのか、そのアクションへと至るプロセスからこぼれ落ちた余白を丁寧に拾っていくことに、映画作家としての賭けがある。ロール/ミカエルは、自分の身体に付随するものとは異なる何者かになれるようなチャンスを常に窺がっている。


『トムボーイ』© Hold-Up Films & Productions/ Lilies Films / Arte France Cinéma 2011 


 ロール/ミカエルは、男の子たちの遊びの輪に交じりながら、しばらくの間は男の子たちが繰り出すアクション、ジェスチャーを注意深く観察する作業に入る。観察者としてのロール/ミカエルには、疎外感が滲んでいるのと同時に(しかしこの疎外感とは、あくまで観客の視点から見たロール/ミカエルの像でもあるところが、『トムボーイ』の奥深いところだ)、目の前で繰り広げられている男の子たちの騒ぎを前に、冷静に好機を狙っているかのような姿のようにも思える。この輪の中で、自分に何ができるか、そしてその行動の結果、自分はどのように見られるか、ロール/ミカエルは自分なりに計算している。ロール/ミカエルの悲哀と歓喜は、常に決定性を持たない入り混じった状態なのだ。


 また、男の子たちがロール/ミカエルの周囲で騒ぎ立てる「音」は、自身の意識の中心からやや外れた「音」、どこか客観性を持った「音」のように聞こえてくる。大切にしている妹が放つ、いつもの無邪気な笑い声とは、その親密さ、温度において響き方、「音」の浸透の仕方がどこか異なる。


 セリーヌ・シアマは、ロール/ミカエルのアイデンティティの確立を、鏡の前に立たせることで試している。分身としての鏡の姿に、新たな自身のアイデンティティを求めるという図は、有名な『タクシードライバー』(76)のシーンに限らず、これまでに多くの名作が試みてきたことであり、セリーヌ・シアマはその意味において、伝統性を引き継ぎながら、その応用をここで試している。ほかの男の子のように地面に唾を吐く練習。体の筋肉のあり方を確かめる所作...。ことあるごとにロール/ミカエルは、自分の部屋の鏡の前に立ち戻り、その細部を確認する。それは『燃ゆる女の肖像』で、肖像画そのものよりも、絵の具の混じり具合や、絵筆がキャンパスをこする音など、細部のプロセスを丁寧にクローズアップさせていった構築の仕方に等しい。





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