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『トムボーイ』セリーヌ・シアマが紡ぐ、まだ見ぬ人生への連帯

© Hold-Up Films & Productions/ Lilies Films / Arte France Cinéma 2011

『トムボーイ』セリーヌ・シアマが紡ぐ、まだ見ぬ人生への連帯

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『トムボーイ』あらすじ

夏休み、家族と共に新しい街に引っ越してきた10歳のロール。引っ越し先で「ミカエル」と名乗り、新たに知り合ったミザたちに自分を男の子だと思い込ませることに成功する。やがて、リザとは2人きりでも遊ぶようになり、ミカエルとしての自分に好意を抱かれていることに葛藤しつつも、お互いに距離を縮めていく。しかし、もうすぐ新学期。夏の終わりはすぐそこまで近づいているのだった・・・。


Index


『トリュフォーの思春期』とモデル



 「人生はたやすいものではなく、厳しいものだ。だからみんなはそれに立ち向かえるよう強くなることを学ぶのが大切なんだ。いいかい、厳しくなれ、ではなく、強くなれと言っているんだよ。」(『トリュフォーの思春期』)


 セリーヌ・シアマが人生で多大な影響を受けた映画と公言する『トリュフォーの思春期』(76)の中で、ジャン・フランソワ・ステヴナン演じる小学校の教師は、生徒たちにこう熱弁を振るう。この台詞は、フランソワ・トリュフォーのこども時代に関する考え方を代弁した台詞といっていい。『トリュフォーの思春期』は、セリーヌ・シアマのみならず、ウェス・アンダーソンにも多大な影響を与えた「自由な作品」として、今日において、こどもを描いた映画のマスターピースとなっている。


 各国で大ヒットを記録した『燃ゆる女の肖像』(19)の審美的に美しい撮影とは異なり、セリーヌ・シアマの監督第二作目にあたる『トムボーイ』のカメラワークは、クローズアップとミディアムショットの組み合わせをメインにした、より被写体に近い自然主義な撮影、編集を志向している。そのことで、こどもの肌が放つ温度、心情の温度の変化までもが、見る者に敏感に伝わるように捉えられている。また『トリュフォーの思春期』がそうだったように、『トムボーイ』には、こどもたちとの共同作業、セッションの記録が刻まれている。こどもを演出することに関して、セリーヌ・シアマは次のように語っている。


『トムボーイ』予告


 「私は彼女を一人の女優として考えました。キャラクターの心情や態度に関して、率直で、且つ、とても正確であること。彼女には役に徹してもらい、決して私が泥棒の立場にならないようにしました。撮影中、私は常に彼女に話しかけ、彼女と一緒にシーンのリズムを作っています。子供たちへの指導は、信頼関係を築くことが大切です。そして、それを大きなゲームにすることもまた重要なのです。」*


 キャラクターを共に構築するプロセスにおいて、セリーヌ・シアマはこどもたちにプロの役者としての仕事を求めることで、彼らを対等な存在として尊重する。同時に、撮影をゲームのように感じてもらえるよう、予めショットの長さを決めず、細切れにカットをかけるような「儀式性」を極力避け、こどもたちと共に遊戯を楽しむかのような態度で撮影したという。ここで、セリーヌ・シアマが「泥棒」という言葉を使っているのが興味深い。ここでいう「泥棒」は、「搾取」という言葉に置き換えられる。


『トムボーイ』© Hold-Up Films & Productions/ Lilies Films / Arte France Cinéma 2011 


 映画において、俳優たちはカメラにその影、その肖像を搾取される。撮影という行為自体が搾取の要素から逃れられないならば、映画作家はどうやって被写体とのフラットな関係性を構築していくことができるか。これはセリーヌ・シアマが、フィルモグラフィー全体を通して問いかけているテーマだ。『燃ゆる女の肖像』では、画家とモデルの関係を描くことで、その問いを直接的に探究していた。ある日、画家であるマリアンヌ(ノエミ・メルラン)は、モデルのエロイーズ(アデル・エネル)に自分の気づいていなかったことを突きつけられる。それは、「あなたが私を見るように、あなたも私に見られている」という、芸術家による支配を覆す、視線/被視線の存在についてだった。





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