市井の人々を見つめてきた監督×実在の事件
吉田監督が『空白』の脚本制作に着手したのは、2017年。『愛しのアイリーン』の夏パートと冬パートの撮影の間だった。吉田監督は、「映画監督になる前から『映画化したい』と語っていた」という『愛しのアイリーン』の劇映画化を実現させ、「夢をかなえた次の目標として、心のなかで抱えているものを吐き出して、自分を見つめていった」という(2021年8月に開催された「スターサンズ映画祭」登壇時の発言)。そのため、本来の持ち味である“笑い”を極力抑えた物語にしようと考えたそうだ。
モチーフとなったのは、2000年代初頭に発生した事件だ。古書店で万引きをした男子中学生が逃走し、電車にはねられて死亡。古書店の店長に非難が殺到し、店は廃業に追い込まれた。この出来事がずっと心に引っかかっていたという吉田監督は、「彼らにとっての救いとは?」を念頭に、物語の骨格を作っていった。
『空白』© 2021 『空白』製作委員会
そこに、NHKで放送されたドキュメンタリー番組「ドキュメント72時間」が影響を与える。阪神淡路大震災で夫を亡くし、ふたりの思い出の公園を日々訪れている女性が語った「皆さん、どうやって折り合いをつけているんでしょうね」という言葉が、大切な友人を亡くした吉田監督の琴線に触れたそうだ(『空白』マスコミ用プレス、「SPA!」2021年9/21・28合併号(扶桑社)より)。
こうした流れを観ていくと、本作の根底に「リアリティ」があることが見えてくる。吉田監督自身、ドキュメンタリー作品を観ることが多く、登場人物の構築やセリフ等に生々しさが伴うのは、そうした市井の人々の姿を日頃から見つめているからであろう。
ボクシングを題材にした『BLUE/ブルー』(21)も知人をモデルにしており、監督のボクシング経験を反映した作品。『さんかく』(10)や『犬猿』(18)といったオリジナル作品でも、徹底して市井の人々を描いてきた。『ヒメアノ~ル』(16)や『愛しのアイリーン』といった漫画原作の作品は、設定こそ突飛だが、日常に異物や暴力が入り込む怖さを見つめており、あくまでベースは生活感にあると考えられる。
『BLUE/ブルー』予告
そのうえで『空白』はこれまでに手掛けてきた作品の集大成的な位置付けといえ、どんな状況に陥っても日常が続くというシビアな目線は『BLUE/ブルー』にも通じ、他者からの理不尽な暴力で状況が一変してしまうのは『ヒメアノ~ル』や『犬猿』とも関連付けられる。いわば、吉田恵輔という映画監督は、日常にしっかりと身を浸し、そこで生じる可笑しみややるせなさを描いてきた人物なのだ。そんな彼が実在の事件をモチーフにしたら、観る者の心を揺さぶる力作となるのは、必然といえるのかもしれない。
白眉といえるのは、古田新太扮する添田の表情を見つめた『空白』のラストカットのエピソード。撮影全体でも最後に撮ったものだが、カットがかかり、クランクアップを迎えた瞬間の姿が使われている。つまり、古田が添田から自身に「戻った」一瞬が収められているのだ。最初から狙っていたのではなく、編集時に思いついたそうだが、役者が役から本人に戻る姿を入れ込むという発想は、極めてドキュメンタリー的であり、リアルとフィクションの狭間を描いてきた吉田監督なればこそだろう。