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『空白』不寛容の“先”に、手を伸ばす。映画史の足跡を継いだ一作

© 2021 『空白』製作委員会

『空白』不寛容の“先”に、手を伸ばす。映画史の足跡を継いだ一作

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変容し続ける人物、初見で決めつける世間



 『空白』に流れるリアリティ。それは単に「現実的である」と感じられるものだけではなく、より上位の「真実味がある」領域に達している。その好例が、「感情の流れの説得力」と「一面的でない人物描写」だ。


 たとえば、本作の初映像である特報では、添田は「モンスター」のキャッチコピー通り、危険人物にしか見えないことだろう。実際に、物語の序盤では娘の花音のケータイを窓から投げ捨てるわ、弟子の野木を理不尽に叱りつけるわ、同業者に電話でクレームを入れるわ、通行止めの道路を無理矢理通るわと強権的で野蛮な男として描かれている。


『空白』特報


 開始直後から古田の迫力ある怪演に気圧されるが、『空白』の真骨頂はその先にある。それは、観客の心に嫌悪感を抱かせてからの“変容”。花音を失ってから添田は「娘が万引きなどするはずがない」とスーパーの店長・青柳に付きまとい「真実を教えろ」と食って掛かり、花音が通っていた学校に乗り込み、担任教師・今井に「娘はいじめられていたんじゃないか。違うならその証拠を出せ」と噛みつく。青柳や今井からしたらたまったものではないが、「娘の無実を晴らしたい」という想い自体は十分に理解できるものだ。


 さらに、本作は様々な人間とぶつかり合うことで添田が娘の死に「折り合いをつけようとする」さまを丹念に描いていく。親としての至らなさを反省し、遅まきながら娘のことを知ろうとする“成長”や、周囲の人物への態度の“軟化”など、本作が添田の姿を介して映し出す「愛する者が亡くなった後の人生」には、とってつけたようなものが皆無。同時に、いつしか彼に同情や憐憫、共感を抱いていることだろう。



『空白』© 2021 『空白』製作委員会


 そして、ここが実に秀逸なのだが、彼に対してそのような感情を抱けるのは、107分という上映時間を最後まで付き合ったからだ、という沈黙のメッセージがヒリヒリと観る者を締め付ける。世間は、ぱっと見の印象で添田を「モンスター」と決めつけ、ワイドショーのネタにしたり、ネットでさらし者にしたり自宅に誹謗中傷のビラを貼ったりと「途中段階」でバイアスをかけてしまう。正面からぶつかり合い、理解しようとするのは元妻の翔子や、弟子の野木といった近しい人々だけだ。


 それは、青柳においても同じ。父親が急逝したことでスーパーをなし崩し的に継ぐことになった彼は、苦しい台所事情の中で(直接的に言及はされないが、店内の雰囲気や防犯カメラがこけおどしであることなどから、経済的な逼迫が推察される)以前から万引き被害に悩まされていた。店側として適切な対応を取ったはずだが、部外者から糾弾されてしまう。「店側に落ち度がないと伝えたい」というマスコミを信じ、インタビューで心情を吐露したら、悪意のある切り取り方をされて放送される。放火や救急車を勝手に呼ばれるなどいやがらせが続き、青柳は心身ともに追い詰められてしまう。


 これは何も、『空白』という物語の中だけで起こっているものではない。SNSを開けば、5分とたたずに同様のケースに行き当たる。当事者同士のコミュニケーションで完結させず、部外者が安全地帯から“正義”を振りかざす昨今。市民が他者を飯や話のネタにする一方で、彼らの人生は歪められ、命は奪われる。本作のモチーフとなった実在の事件以上に、いま現在我々が生きる社会は深刻化しているともいえる。『空白』は恐るべきことに、あくまで日常劇なのだ。



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