映画史を背負う名作の系譜に連なる1本
吉田監督によれば、『空白』は当初、冒頭に登場する『白波』とする案もあったという。波が動くことで生まれ、消えていく泡沫のような存在。それは「真実」の象徴ともいえるし、荒らすだけ荒らして次のネタに移っていく大衆とリンクする部分もあるかもしれない。
そして河村プロデューサーは、本作の英題を『Intolerance(不寛容)』とした。現在の日本社会を的確に表した言葉でありつつ、映画史的にはD・W・グリフィス監督の不朽の名作『イントレランス』(1916)を想起する方も多いことだろう。異なる時間に起こった複数の物語を並行して描く「パラレル・モンタージュ」を導入した映画でもあり、ここで描かれる「迫害」や「冤罪」は『空白』とも重なる。
ちなみに、『イントレランス』の影響を強く感じさせるのが、アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督の『バベル』(06)。こちらは、世界各地を舞台に、言葉や心が通じないことで生じる事件や騒動を描いた。人と人がわかり合う難しさは「不寛容」にも通じる。
『空白』© 2021 『空白』製作委員会
『空白』と『イントレランス』に直接的な因果関係はないものの、間に挟まる『バベル』も含め、観る者の中で系譜を感じる部分は確かにあるのではないか。本作の上映時間は107分だが、添田、青柳、花音、野木、草加部……複数の人物の物語が同時並行に動いている。そして驚きなのは、劇中で音楽が4か所しか流れないということ。非常にそぎ落とした構成にもかかわらず没入させられるのは、編集の見事さもさることながら、個々の物語のパワーバランスが完璧だからであろう。そうした積み重ねの根底には、地方都市の小さなエリアで起こった物語でありながら、人間が100年以上をかけて映画で描こうとしてきた「理解と不寛容」と結びつく“奇跡”があるのかもしれない。
『愛しのアイリーン』の原作者である新井英樹氏は、スターサンズ映画祭の場で「『空白』は吉田監督版『スリー・ビルボード』と聞いていた」と語った。ここもまた、非常に興味深い視点であり、本作は『スリー・ビルボード』(17)で描かれた「子どもを事件で失った親が、周囲を巻き込み真実の究明に乗り出す」物語とも重なりつつ、『マンチェスター・バイ・ザ・シー』(16)に通じる、「喪失感はこの先もずっと消えることはない。そういうものだし、それでいいのだ」というメッセージも内包している。
そしてまた、吉田監督は主人公の添田にソン・ガンホをイメージしながら脚本を執筆していたという。そこには、本作に韓国映画の特長である「人間の業をえぐるハードなドラマ」を感じ取っていたからであり、完成したこの映画が早くから映画人たちを熱狂させている点から見ても、決してドメスティックな作品ではなく、世界の映画史と結びつき、“いま”を映し出す映画だということが感じ取られる。
そのひとつが、ラストシーン。詳細は控えるが、『スリー・ビルボード』が敵対関係にあるふたりの絆と復讐の肯定を描き、『マンチェスター・バイ・ザ・シー』が「乗り越えなくていい」という救いを提示したうえで、『空白』はその先に手を伸ばす。100年前から不寛容は存在し、この先も消えることはない。ただそれでも、この世界に光はある。人間を信じる価値は、確かに在るのだ。
映画は、人々の心や文化を分かつボーダーを越えていくもの。ある漁師の心の彷徨を描いた本作が海を渡り、言語や国を越え、届く日も近いのではないか――。そう信じさせる特別な力が、『空白』には宿っている。
取材・文:SYO
1987年生。東京学芸大学卒業後、映画雑誌編集プロダクション・映画情報サイト勤務を経て映画ライター/編集者に。インタビュー・レビュー・コラム・イベント出演・推薦コメント等、幅広く手がける。「CINEMORE」 「シネマカフェ」 「装苑」「FRIDAYデジタル」「CREA」「BRUTUS」等に寄稿。Twitter「syocinema」
『空白』
配給:スターサンズ/KADOKAWA
© 2021 『空白』製作委員会