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『由宇子の天秤』徹底的に“答え”を避けることで浮かび上がる、正しさの輪郭

©️2020 映画工房春組 合同会社

『由宇子の天秤』徹底的に“答え”を避けることで浮かび上がる、正しさの輪郭

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“審判する者”と“審判される者”



 由宇子は、聡明かつ高潔なキャラクター。誰よりも正義感が強く、妥協を許さず、何かと日和がちなプロデューサーに対しても、忌憚なく意見をぶつける。彼女がドキュメンタリー監督としてフリーの立場を貫いているのは、テレビ局というシステムの中に組み入れられてしまうと、己の信念を貫くことができないからだろう。


 彼女は、報道するという行為の暴力性に自覚的でもある。誰かにカメラを向けることは、ピストルを脳天に突きつけることと同義だ。カメラの前に立たされた者は、切っ先の鋭い詰問に対して精神の平衡を失い、言葉を失い、ただ静かに頭を垂れる…。由宇子はその加害性を知りつつも、自分が信ずる正義を執行するために、ファインダー越しに被写体を収めるのだ。

 

『由宇子の天秤』©️2020 映画工房春組 合同会社


 象徴的なのはオープニングのシーン。由宇子は、自ら命を絶った女子高生の父親・長谷部(松浦祐也)にカメラを向け、容赦なく質問をぶつけていく。二人の会話は被写体を交互に捉える切り返しで描かれるが、長谷部のショットには誰も映り込んでいないのに対し、由宇子のショットには父親の後ろ姿が映り込んでいる。


 “審判される者”を同一フレームに入れることで、由宇子は“審判する者”であることが鮮明となり、逆に“審判される者”は、孤立無援のか弱い存在であることが浮き彫りになる。春本監督の的確なフレーミングによって、二人は決して対等の関係にはないことが表象されるのだ。その後も執拗に由宇子はカメラやスマホを他者に向けて、“審判する者”であることを誇示し続ける。


 いや、彼女はカメラが回っていない時でさえ、“審判する者”であらんとする。中盤に訪れる、父親・政志(光石研)との緊迫した会話シーン。リビングの奥の薄暗いキッチンに由宇子は身を沈め、煌々と照らされた明かりのなかで、政志はひらすら贖罪の言葉を唱える。それはまるで、真上からのライトを浴びて証言台に立たされた被告のごとし。判決を下すのは、由宇子の役割だ。政志はそれをただ受け入れるだけの罪人にすぎない。


 由宇子は、自分の暴力性に自覚的でありながら、正義の執行のために暴力を肯定するという矛盾を抱えている。キャラ設定に起因するのではない。それが、正義という“曖昧模糊としたもの”の正体なのだ。





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