ダルデンヌ兄弟にも通ずる、春本監督の眼差し
かつて古代ギリシアの大哲学者プラトンは、書物「国家」のなかで「正義とは、己れにふさわしきものを所有し、己れにふさわしきように行為することなり」と著している。正義というものは、立場や環境によってたやすく変容する“極めておぼろげなもの”だと、紀元前の大昔から喝破しているのだ。
プラトンの時代からおよそ2,500年が経過し、SNSの時代になった今、我々は誰でも“審判する者”の役割を代行することができる。ツイートボタンをクリックするだけでいとも容易く他者を糾弾し、己の正義を誇示することができる。その正義に対して、別の正義を振りかざす者が、正義の鉄槌を下す。“審判する者”と“審判される者”が常に入れ替わる、永遠に終わらないスパイラル。それが「正しさ」であると信じて疑わないから、余計にタチが悪い。我々はプラトンの言葉を噛み締めることもせず、ネットの海に不寛容を拡散させていく。
由宇子もまた、ドキュメンタリー監督として“ある究極の選択”をせざるを得ない状況に陥り、“審判する者”から“審判される者”へと立場が逆転する。激しい葛藤のすえに出した結論がーーそれは決して保身のためではなく、彼女なりの倫理観、道徳心ゆえの判断だったのだがーー他者からは保身と呼ばれても仕方ない選択だったために、彼女は自ら進んで“審判する者”に全てを告白し、裁きを受けようとするのだ。
『由宇子の天秤』©️2020 映画工房春組 合同会社
このとき、“審判する者”と“審判される者”は切り返しでは描かれず、ワンシーン・ワンカットの同一フレームに収められている。オープニングで、由宇子は長谷部に“審判する者”としての眼差しを向けていたが、ここでは“審判する者”も“審判される者”も、等しい存在として映し出されているのだ。それは、安易に他者を断罪してしまうことに対する、春本監督の静かなる抵抗なのではないか?
彼がフェイバリット監督に挙げているダルデンヌ兄弟の作品にも、その態度は力強く表明されている。例えば、ごく普通の13歳の少年が過激な宗教思想に感化され、自分の通う学校の教師を殺害しようとする『その手に触れるまで』(19)。ダルデンヌ兄弟はこの少年を決して断罪することはせず、かといって擁護するでもなく、その生き様を見守っていく。その眼差しは、春本監督に通ずるものだ。決して一つの結論に押し込めようとはしない。
『由宇子の天秤』で劇伴がいっさい流れないのも、その想いゆえだろう。それがメランコリックであれ、オプティミスティックであれ、音楽は一義的な方向に鑑賞者を誘導してしまう。多義的であらんとすればするほど、映画からは音楽が剥奪され、自然音のみがスクリーンを満たしていく。