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『ダムネーション/天罰』タル・ベーラが紡ぐ、鎖に繋げられたメランコリー

『ダムネーション/天罰』タル・ベーラが紡ぐ、鎖に繋げられたメランコリー

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スタイルの枝葉



 タル・ベーラのスタイルが確立される契機となったもう一つの重要な作品は、テレビ作品『マクベス』(82)だろう。『マクベス』にはタイトルクレジットまでの約五分間と、クレジット後の五十七分間の二つのショットしか存在しない。タル・ベーラは、この大胆な作品の中で、諍いを起こす「顔」と「顔」でフレーム内を埋め尽くす。


 劇場長編デビュー作『ファミリー・ネスト』(77)や、それ以前に制作された短編におけるドキュメンタリー的なアプローチで注意深く発見された「顔」の対立が、ここではアクロバティックな形で応用されている。背景にあるべき美術を観客に想像させていくという低予算映画のあり方に倣いつつ、極度にテンションの高い俳優の顔から顔へと繋ぐ、いわば「顔の対立」で成立しているこのミニマルな文体は、それ自体が活劇であるかのような異様な熱気を生んでいる。


 ここでタル・ベーラは、これまで培ってきた観察性の他に、画面の持続性、閉鎖性をも獲得したかのように思える。それらを枝葉として、総合的に作品として昇華したものが、後に「タル・ベーラの小宇宙」と呼ばれるものになっていったのだろう。『ヴェルクマイスター・ハーモニー』(00)の冒頭シーンで、太陽の周りを回り続ける惑星が大人によって演じられていたように、それは幼児的な遊びへの退行時間のようでありつつ、鋭利な先端をも示している。



『ダムネーション/天罰』


 『ダムネーション/天罰』の降りやまない雨は、『ニーチェの馬』の木の葉と共振している。『ニーチェの馬』で嵐の画面に舞う無数の木の葉が、どこかスクリーンに投射された傷だらけのサイレントフィルムの表象を想起させていたように、『ダムネーション/天罰』の路上を打ち続ける雨粒は、無数の縦傷が入った古いフィルム上映に立ち会っているかのような、奇妙な錯覚を起こす。仮にこの雨粒をフィルムに入った傷とするならば、雨音はフィルムが映写機で回転する音にあたる。


 そしてタル・ベーラの映画において音の位相は、カメラから遠かろうが近かろうが、常に一定を保っている。『ダムネーション/天罰』のタイタニック・バーのシーンで、音の位相は特異に際立つ。ビリヤードの球を突く音と、控えめなアコーディオンの音だけが、研ぎ澄まされた静けさの中で室内楽のように響いている。しかしそれがこの空間に響く音なのか、主人公の心の中に響く内的な音なのかは判然としない。すべての音が耳の近くにあるかのように聞こえてくる。いわば、「音のクローズアップ」。こういった特異な演出に、後期タル・ベーラの映画が持つ小宇宙性、無国籍性の主題が浮かび上がってくる。


 しかしそこには、この世に存在しつつも、この世の外でさえ身動きがとれずにいる登場人物たちがいる。『アウトサイダー』(81)の主人公のように、彼らはある種の軽薄なバランスを身に纏うことで、世界とギリギリの線で繋ぎ止められている。歌手の女性が「終わった愛」についての楽曲を歌う。その間、オーディエンスは時間が止まってしまったかのごとく、ほとんど動かない。外では大雨が降りやまず、タイタニック・バーを退廃の重い空気が侵略していく...。




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