2022.02.02
鎖に繋がられた人々
「彼(タルコフスキー)の映画では雨は人を浄化するものだが、私の映画では泥を生むだけだ」*
(タル・ベーラ)
『ダムネーション/天罰』において、厳しい雨粒を受け続ける野良犬たちは、むしろ人間たちよりも解放されている。どこにも行けない野良犬が生きていくために水たまりの水を飲んでいたと、主人公は野良犬へ同情の言葉を寄せるが、それでも野良犬たちは少なくとも鎖には繋がれていない。このどこでもない架空の土地の重力に繋がれて、抵抗できないでいるのは、むしろ主人公のように見える。
『サタンタンゴ』で粗相をした猫を殺めてしまった少女エシュティケのことを思い出す。死んだ猫を片腕に抱え、少女はゾンビのように村を彷徨する。彼女は、窓枠の外から楽しそうに踊る人々を目撃する。そして猫の死骸と共に地面に寝そべって、この世界からの解放を待ち続ける。この土地の呪縛を受け入れながら、彼女はこの土地の呪縛からさえも「よそ者」にされている。鎖に繋がれたアリスのようなエシュティケ。
タル・ベーラの映画においてダンスはこの世界からの解放を意味する。『ダムネーション/天罰』で、もっとも開放的なシーンは、窓の外で水たまりを弾かせながらステップを踏む男性に導かれるタイタニック・バーでのパーティーシーンだろう。開放的でありながら、まるで喪に服すための最後の宴であるかのように、チークタイムは長く続く。年老いた女性が主人公にアドバイスする。「ダンスは体が発する優しい言葉。地上の束縛から解き放ってくれる」。しかし主人公はカフェで騒ぐ人たちのように踊ることできない。『サタンタンゴ』の少女のように、主人公は「よそ者」であり、馬鹿にされている。そしてなによりこのダンスシーンの開放性自体が、既に手遅れになってしまった夢なのだ。
『ダムネーション/天罰』
工場の出口ならぬ、牛舎の出口で始まる『サタンタンゴ』のファーストショットが開放的だったように、『ダムネーション/天罰』の驚愕としか言いようのない着地点は、ユーモラスで、怒りに満ちていて、灰色の空に、ほんの僅かながらに肯定的な空気を漂わせている。野良犬との共振。主人公の身体は野生に返還される。それは主人公が絶望の果てに初めて手に入れた「ダンス」であり、覚醒の儀式だったのかもしれない。
しかしタル・ベーラは神秘性だけを断固として拒否する。覚醒することは前進ではない。灯りは希望ではない。あくまで生き抜いていくための手段にすぎないのだと。もしこの作品に希望が描かれているとするならば、それはこのまま生きろと、無理やり外の世界に押し出された主人公の疲れた足取りだ。そこには生存という名のドキュメンタリーが生まれている。だからこそ美しい。しかし、おそらく彼の足首には腐食した鎖が繋がれたままなのだ。
参考資料:
*Taste of Cinema「Filmmaker Retrospective: The Slow Cinema of Bela Tarr」
映画批評。ユリイカ「ウェス・アンダーソン特集」、リアルサウンド、松本俊夫特集パンフレット等に論評を寄稿。
『タル・ベーラ 伝説前夜』
1月29日(土)、シアター・イメージフォーラムほかにて一挙公開!