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『天使の涙』過渡期のウォン・カーウァイが描く性と死、『恋する惑星』姉妹編
反転して繋がる『恋する惑星』
『天使の涙』に見られる『恋する惑星』からの反転は、ほとんど自己模倣的でさえある。たとえばエージェントの女が殺し屋の部屋を掃除し、ゴミを持ち帰り、そのゴミから彼の生活を想像するのは、フェイが警官663号の家に忍び込み、相手に知られないよう“ふたり暮らし”をする行為に重なる。殺し屋が金髪の女と出会って一夜をともにするのは、結果こそ違うものの、刑事モウとドラッグ・ディーラーと同じだ(ディーラーの女も金髪だった)。
また『天使の涙』のモウが他人の店を勝手に使って商売をするのは、『恋する惑星』のフェイにそっくりだ。失恋女が元恋人に未練たらたらで、電話にしがみつくさまは『恋する惑星』のモウを思わせる。恋愛に振り回されるあまり相手との距離感をつかめなくなる、あるいは常識では考えられない価値観で生きている人々が、カーウァイの描く香港には息づいているのだ。
『恋する惑星』予告
決定的に狙いすました反転は、金城武が体現したふたりの人物だろう。『恋する惑星』で饒舌に多言語を操る刑事・モウ役に扮した金城は、『天使の涙』ではうまく話すことができない不法侵入者(犯罪者)のモウ――同じ名前の別人である――を演じた。前者のモウは賞味期限の迫ったパイン缶を食べまくるが、後者のモウは子どもの頃に賞味期限の切れたパイン缶を食べたせいで口が不自由になったという設定だ。しかも、どちらのモウも“見知らぬ誰か”との出会いを待ち望んでいる。刑事のモウは将来の恋人が、侵入者のモウは将来の親友が、この都市の雑踏にいるのではないかと考えているのだ。
カーウァイは、金城演じるふたりのモウ以外にも反転がありうることを認めている。たとえば『恋する惑星』のドラッグ・ディーラーと、『天使の涙』の殺し屋は、どちらも裏社会の人間であり、バーに通い、必要とあらばたやすく人を殺す。また作品の終盤には、『天使の涙』のモウが惣菜屋「ミッドナイト・エクスプレス」に忍び込み、『恋する惑星』のフェイよろしく踊りながら仕事をするシーンもある。カーウァイは、ふたつの映画に登場する全員が裏表の存在なのだと言っているが、ポイントは、特定の人物同志がぴったりと鏡のように対応するわけではないことだろう。『恋する惑星』ではひとりの人物に見られた複数の特徴が、『天使の涙』では異なる人物に割り当てられていたりする。
『天使の涙』©1995, 2008 Block 2 Pictures Inc. All Rights Reserved.
もっとも「全員が裏表」であることとは、言い換えれば、彼らはみな唯一無二の登場人物ではありえないということである。都市そのものが主人公である『恋する惑星』と『天使の涙』では、そこに暮らす人々は悲しくも入れ替え可能な存在なのだ。『恋する惑星』では刑事・モウのエピソードにこのことが集約されており、彼は元恋人の好物であった大量生産のパイン缶をむさぼりながら、元恋人にとって自分と缶詰が大差なかったことを悟る。
この価値観は『天使の涙』にもそのまま引き継がれており、殺し屋はどうやら大量のハイネケンを部屋で飲んでいるようだし(エージェントが缶を回収する場面がある)、殺し屋と金髪の女が出会う場所がファーストフード店の代表的存在・マクドナルドであることは特に象徴的だ。ふたりは過去に会ったことがあるようだが、男は女を覚えていない。一夜をともにした後、女は殺し屋に惚れ込むが、結局、男は女に別れを告げるのだった。「私の顔を忘れないで」と泣く女に、殺し屋は「忘れないよ」とキスをして去るが、彼にそのつもりはない。ふたりの関係がお互いにとってひとときのものであること、男がこの恋愛をあっさりと消費してしまうことは、まるで出会いの瞬間から決まっていたかのようだ。