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『天使の涙』過渡期のウォン・カーウァイが描く性と死、『恋する惑星』姉妹編

©1995, 2008 Block 2 Pictures Inc. All Rights Reserved.

『天使の涙』過渡期のウォン・カーウァイが描く性と死、『恋する惑星』姉妹編

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夜の香港、性と死の匂い



 『恋する惑星』の恋愛は、どこかおとぎ話のようで、どこか地に足が着いていないがゆえに、瑞々しい青春の輝きを放っていた。刑事のモウとドラッグ・ディーラー、警官663号とフェイの恋はプラトニックなもので、そこにセクシャルな雰囲気はほとんどないのだ。警官663号とCAの元恋人の回想シーンには艶めかしさがあるものの、それは過去の出来事であり、すでに彼らが失ったものとして描かれている。


 しかし夜の香港、都市の〈陰〉を描いた『天使の涙』には、『恋する惑星』にはほとんどなかった性と死の匂いが充満している。殺し屋と金髪の女はあっさりと身体を重ね、エージェントは殺し屋が不在の部屋で自慰行為に耽るのだ。チャーリーが元恋人の結婚相手をモウとともに探し回るシーンで、ふたりはダッチワイフを相手に見立ててボコボコにする。


 暴力シーンのケレン味は本作の白眉だ。殺し屋が躊躇なく銃の引き金を引けば、標的の身体から血が噴き出し、店のガラスは割れ、電球から火花が散る。ほとんど一瞬の出来事が、それ以上の長さに引き伸ばされるのだ。またカメラは、いくつもの命が一瞬にして奪われた凄惨な殺害現場をそのまま映し出す。クリストファー・ドイルの撮影は、暴力の緊張感と、思わず息を呑むような美しさをともに切り取った。タッチは違うが、モウと失恋女が巻き込まれる飲茶店での乱闘にも同様の迫力がある。


『天使の涙』©1995, 2008 Block 2 Pictures Inc. All Rights Reserved.


 ここで大雑把に仮説を立ててみたい。『恋する惑星』が若者たちの恋愛を通じて“時間”を、もっと言えば過去と未来を扱っていたのに対し、『天使の涙』は現在を扱おうとしたのではないか、というものだ。『恋する惑星』で描かれた恋愛が、過去から現在に進み、未来に開かれる形で幕を閉じるのに対し、『天使の涙』の恋愛は(ラストシーンを除き)現在でひとまず終わりを迎えるからだ。その代わり、彼らは自分の身体で都市を走り回り、命のやり取りをし、性行為に身を委ねる。それはまるで、今この瞬間にある生を確認しているかのようだ。そして映画のラストには、ふたりの人物がこの世を去ることになる。


 劇中で少々異彩を放つ、金城演じるモウとビデオカメラのエピソードも、この“生死”と“時間”というキーワードから紐解けば別の可能性が見えてくるだろう。モウは父親の姿をありったけ記録し、ラストにはビデオの映像を巻き戻しながら見ているが、その様子はむしろ、過ぎ去った時間がもう二度と戻らないことを明らかにする。のちに『花様年華』(00)や『2046』(04)で直接的に描かれる、時間の不可逆性というテーマはここで先取りされていたのだ。


 カーウァイは恋愛映画を撮ることで、自分の見た時代の空気を作品に込めてきた映像作家だ。『恋する惑星』に香港返還を控えた都市の空気が見え隠れしていることは以前指摘した通りだが、『天使の涙』は同作とはアプローチを変え、現在の不安定さや時間の不可逆性を炙り出している。モウは5歳で香港に移住してきた設定だが、これはカーウァイ本人の歴史とまったく同じものだ(モウが台湾生まれ、カーウァイは上海生まれという違いはあるが)。そのモウがのめり込むようにして映像を撮り、二度と戻らない時間を見返すことには、ただのノスタルジーや切なさにとどまらない意味がある。


 『天使の涙』は『恋する惑星』から生まれ、同作の物語を反転させた姉妹編だ。しかしいくつかの主題は、この映画を越え、のちの作品へと継承されていくことになる。すなわちこれは、ウォン・カーウァイの世界観が過渡期を迎えていたことを顕著に表す一本。彼のフィルモグラフィの第1部と第2部を繋ぐ……と言っては、さすがに乱暴すぎるだろうか。


[参考文献・資料]

『天使の涙』DVD(特典映像)、アスミック・エース エンタテインメント

『天使の涙』劇場プログラム、(株)プレノン・アッシュ、1996年

『フィルムメーカーズ[14]ウォン・カーウァイ』キネマ旬報社、2001年

Wong Kar-wai by Han Ong – BOMB Magazine



文:稲垣貴俊

ライター/編集/ドラマトゥルク。映画・ドラマ・コミック・演劇・美術など領域を横断して執筆活動を展開。映画『TENET テネット』『ジョーカー』など劇場用プログラム寄稿、ウェブメディア編集、展覧会図録編集、ラジオ出演ほか。主な舞台作品に、PARCOプロデュース『藪原検校』トライストーン・エンタテイメント『少女仮面』ドラマトゥルク、木ノ下歌舞伎『東海道四谷怪談―通し上演―』『三人吉三』『勧進帳』補綴助手、KUNIO『グリークス』文芸。



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©1995, 2008 Block 2 Pictures Inc. All Rights Reserved.

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