偶然を抱きしめる
「人生で一番貴重なものは、いつも与えられたものでした。私の人生を振り返ってみると、最も素晴らしいものは、いつも無償で、あるいは思いがけず私に与えられたものだったのです」(ホン・サンス)*3
ホン・サンスの映画には脚本がない。撮影日の朝に台本が渡され、一日の撮影が終わってしまえばメモは回収されてしまう。俳優と場所を決め、撮影されていく素材を見ながらリアルタイムでそれぞれの類似性が関連付けされていく。映画の構成や全体像は後から導き出される。編集も一日か二日あれば充分なのだという。この方法でホン・サンスは尋常ではないペースで作品を発表し、しかもその洗練ぶりは作品を重ねるごとに高まっている。もはや無二の領域だ。ホン・サンスは与えられた環境に対する自分と俳優の反応を映画にしているという。
『あなたの顔の前に』のサンオクは、与えられたものに感謝する。与えられたものが全てであり、そこに優劣はない。人生の美しさは、私たちの顔の目の前に既にある。サンオクの生き方は、ホン・サンスの制作姿勢そのものを表しているといえるだろう。
『あなたの顔の前に』© 2021 Jeonwonsa Film Co. All Rights Reserved
サンオクは幼い頃住んでいた家にふと立ち寄る。家は店舗として改装されていた。そこで彼女は小さな少女と接触する。ちょうどこの家に住んでいた頃のサンオクと同じくらいの背丈の少女。観客はこの少女を後ろ姿でしか確認することができない(しかもクレジットによると、この少女の声は吹き替えられている)。少女が発する矛盾した言葉にサンオクは戸惑いを見せる。しかしサンオクは、この状況のすべてを許すかのように目の前にいる彼女を抱きしめる。居酒屋のギターの音色と同じように、このシーンは、私たちの知らないサンオクの少女時代の記憶を手繰り寄せている。彼女は目の前で起きた思いがけない偶然を抱きしめる。大切なものをここに留めるために。そして本作で二回ほど描かれる抱擁は、抱擁自体をテーマにした『イントロダクション』(20)のイメージとも重なっている。
居酒屋「小説」の外では雨が降りしきる。『次の朝は他人』で居酒屋の外に降る雪が美しかったように、本作の雨も音楽のように美しい。雨音が俳優と共に音楽を奏でている。サンオクとジェウォンは一つの傘で雨をしのいでいるが、二人の会話は聞こえない。もしかしたらジェウォンは別れ際に泣いているのかもしれない。どうやらサンオクは目の前にいるジェウォンのことを信頼しているようだ。たとえそれが無責任なくらい真っすぐな誠実さだったとしても。
翌朝、本作で最も美しいサンオクの身振りが披露される。目を覚ました彼女はこれまで以上に何物にも動じることはない。サンオクは自分の顔の前のある存在だけを信じている。窓から射す無償の光が、多面体の鏡のように彼女の輪郭を、そして彼女自身の人生の歩みを映し出す。与えられた偶然は彼女が奏でる室内楽=人生の一部となる。目の前にある美しさを、彼女はただただ慈しんでいる。
*1 MUBI Notebook [Hong Sang-soo's Homecoming by Jawni Han]
*2 MUBI Notebook [That Day the Snow Fell: Hong Sang-soo Discusses "Right Now, Wrong Then"]
*3 New Yorker [Hong Sangsoo Knows if You're Faking It]
映画批評。「レオス・カラックス 映画を彷徨うひと」、ユリイカ「ウェス・アンダーソン特集」、リアルサウンド、装苑、otocoto、松本俊夫特集パンフレット等に論評を寄稿。
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『あなたの顔の前に』
6/24(金)よりヒューマントラストシネマ有楽町、新宿シネマカリテ、アップリンク吉祥寺ほか全国順次公開
配給:ミモザフィルムズ
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