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『私のように美しい娘』トリュフォーを魅了したベルナデット・ラフォン、その自由の闘士としての姿

©Pierre Zucca

『私のように美しい娘』トリュフォーを魅了したベルナデット・ラフォン、その自由の闘士としての姿

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『私のように美しい娘』あらすじ

社会学者のスタニスラス・プレヴィンは女囚刑務所に訪問した。女性犯罪者の動機と心理についての論文を書くため、受刑者にインタビューをするのが目的である。プレヴィンは恋人を塔から突き落とした罪で服役中しているカミーユ・ブリスにインタビューを行った。しかし定期的に訪れ、彼女の数奇な半生を聞いていくうちに、プレヴィン自らも彼女に魅了されてしまう。彼女の無実を信じて、事件の真相を掴むために現地へ飛ぶが…。


Index


永遠に新しい娘



 「単に女性に奉仕するとか、あるいはウーマンリブ的な意味においてではなく、ひとりの女性の生きかたを「裁くのではなく、愛する」という意味においてフェミニストの映画なのです」(フランソワ・トリュフォー)*


 ベルナデット・ラフォンは何度だって生まれ変わる。『私のように美しい娘』(72)のカミーユ(ベルナデット・ラフォン)には人生を最初からやり直さなければならないような重大な転機が何度も訪れる。しかしその度に彼女は華々しく、同時に猛獣のように生まれ変わり、調子っぱずれな歌声を披露しながら時代の先端を全力で駆け抜ける。フランソワ・トリュフォーの言うように、まるで俳優の人生がそこにしかないかのような絶対的なヒロイン像。息せき切るようなトリュフォー作品のリズムにラフォンの獰猛なエネルギーが注入される。カミーユはフレームの端から端を疾風怒濤の勢いで駆け抜ける。スピード!スピード!スピード!カミーユの新しさは永遠だ。


『私のように美しい娘』予告


 本作の魅力はラフォンの才能にその多くを負っている。トリュフォーはラフォンの爆発力を信じて、彼女にすべてを語らせている。そしてカミーユのヒロイン像は、男性作家による女性崇拝から遠いイメージに辿りついている。カミーユは理想の女性像を背負わされたファム・ファタールではない。誰かの人生の困難に際して何かしらの啓示を与えることが託された女性でもない。彼女は自分の幸せのために生きている。トリュフォーは映画という大枠の中でラフォンへの手綱を敢えて外している。そして二人はこの自由を大いに楽しんでいる。結果としてカミーユという「女性犯罪者」は、トリュフォー作品のヒロイン像さえも超えていく。


 ノア・バームバックとグレタ・ガーウィグは、本作のカミーユ=ベルナデット・ラフォンに捧げるかのように、『フランシス・ハ』(12)でジョルジュ・ドルリューの手掛けた本作のテーマ曲を使用している。バームバック&ガーウィグは、新しい時代を生き抜く新しい女性の理想的なモデルとして本作のカミーユを選んだのだろう。





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