光学的化身
『地獄』のイメージは当時流行していた視覚や錯覚によって物質を変容させるオプアートやキネティックアートに直接的な影響を受けている。観客は単なるイメージの消費者にとどまらず、スクリーンを介した体験によって視界に飛び込んでくるイメージを変容させる。視覚の原理や錯覚を探求することで新たな視点を獲得するオプ・アートやキネティックアートは、激しい嫉妬によって目の前の世界が変わってしまったマルセルのイメージと重なっている。マルセルの世界では、耳に入ってくる音の速度さえ変わっていく。そして一度開いてしまった傷口が治癒することはない。本作にはマルセルの傷口という「第三の目」から見た世界が描かれている。
興味深いのは『地獄』のイメージが、オプアートやキネティックアートを跨いで1920年代の「純粋映画」のイメージを引用しているところだ。万華鏡のような映像、そして唇のエロティックな映像はマン・レイがカメラを務めた『バレエ・メカニック』(24)を想起させる。上半身裸で線路に横たわるオデットに汽車が迫ってくる鉄橋のシーンでは、アンリ・ショメットの『光と速度の反射』(25)における鉄橋のイメージが引用されている。クルーゾーは、最新のアートを介してその歴史を辿り、映像の原理を探求していく。フェデリコ・フェリーニの『8 1/2』(63)に新しい映画の啓示を受けた当時のクルーゾーが、映画を駆動させるような聖性や映画を撮る動機を「純粋映画」に求めたことはとても興味深い。「純粋映画」の作品群には、カメラという玩具を手に入れた子供が遊ぶようなプリミティヴな喜びが溢れているからだ。
『地獄』©2009 Lobster Films / France 2 Cinema
本作における光の明滅は性的な象徴であると同時に、ロミー・シュナイダーの身体を通過していくメタモルフォーゼの源泉でもある。変異していく身体。いわば光学的化身。これらのイメージはニコラス・ウィンディング・レフンの『ネオン・デーモン』(16)や、フランシス・フォード・コッポラの『Virginia/ヴァージニア』(11)、そしてエドガー・ライトの『ラストナイト・イン・ソーホー』(21)に多大なインスピレーションを与えている(『ネオン・デーモン』と『Virginia/ヴァージニア』の両方の作品で、エル・ファニングは光学的メタモルフォーゼの化身を演じている!)。オデットの身体は光に侵入=浸食されていく。オデットの悪魔的な微笑みは、その無邪気さゆえに天使のイメージにさえ反転している。
そしてオデット=ロミー・シュナイダーの身体に投影された幾何学的模様、光学的身体は、『地獄』に続く作品であり、結果的にクルーゾーの遺作となった『囚われの女』(68)のアイディアとして流用されている。『囚われの女』の画商は片目を交互に閉じることで、右目と左目が捉えるそれぞれの視界=世界の違いを確かめている。『囚われの女』は、オプ・アートやキネティック・アートのオブジェよりも、芸術の概念自体を落とし込んだ作品といえる。アーティストであるモーリスがモデルの写真を撮るときのサディスティックな興奮の高まりは、『地獄』のカメラテストにおけるロミー・シュナイダーに向けられたカメラアイをどこか連想させる。カメラアイという名のサディスティックな視線。カメラを向けられることに関して、ロミー・シュナイダーはかつて次のように語ったことがある。
「しかし何より、こっちを追いかけてくるあのカメラの眼。銃口を向けられた野ウサギになった気分だ」*1