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『灼熱の魂』神話のような〈個人史〉ミステリー 若き名匠ドゥニ・ヴィルヌーヴの原点を読む
ギリシャ悲劇のような〈個人史〉のミステリー
『灼熱の魂』の原作は、レバノン出身の劇作家ワジディ・ムアワッドが2003年に執筆した戯曲「焼け焦げるたましい(Incendies)」。ヴィルヌーヴは長編2作目の『渦』(00)を手がけたあと、再び映画を作れるだけのインスピレーションをもたらすテーマと題材を探し求めていたという。そのさなかに出会ったのが、ムアマッドが作・演出を務めた舞台「焼け焦げるたましい」だった。
物語の背景にあるのは、1975年から1990年にかけて発生したレバノン内戦である。母親・ナワルが生まれたのは中東にある架空の国という設定で、劇中で「レバノン」という名前に言及されることはないが、パレスチナからの武装難民を脅威とみなすキリスト教マロン派、キリスト教徒に弾圧されるイスラム教徒という対立関係は現実そのままだ。ナワルは血と暴力が渦巻く世界を生き抜かざるをえず、その過程では想像を絶する試練に対峙する。
『灼熱の魂』©2010 Incendies inc.(a micro_scope inc. company)-TS Productions sarl. All rights reserved.
ムアワッドによる原作戯曲は、なんと約4時間にわたり登場人物が語りつづける膨大な内容だった。舞台から映画的なイメージをたっぷり受け取ったというヴィルヌーヴは、映画化のため自ら脚本を執筆。ジャンヌとシモンが自分と家族のルーツに迫る現在の時間と、ナワルが生きた過去の時間を往復しながら、隠されていた驚くべき真実を炙り出していくスリリングなミステリー映画として仕立てた。
本作はギリシャ悲劇やウィリアム・シェイクスピア作品と比較して語られることが多いが、それもそのはず、この物語は、演劇の起源のひとつとも言われるギリシャ悲劇の傑作「オイディプス王」を下敷きとしている。ミステリーとしての魅力を損なわぬよう、その仕掛けを明かすことはしないが、ヴィルヌーヴ&ムアワッドが「オイディプス王」を強く意識したことは確かだ。
たとえば映画のファースト・シーンに登場する少年には、右足の踵に三つの黒い点があるが、これがラストまで物語の鍵を握っている。同じく「オイディプス王」でも、「オイディプス」という言葉が意味する“腫れた足”が展開を大きく左右するのである。『灼熱の魂』を観てから「オイディプス王」を復習すると、いかにこの物語がギリシャ悲劇の要素を巧みに取り入れているかがよくわかるはずだ。なお、「オイディプス王」は日本語訳が岩波文庫・光文社古典新訳文庫・新潮文庫などから刊行されている(ちなみに筆者のお薦めは光文社の河合祥一郎訳)。