© 2021 - LES FILMS DU POISSON – GAUMONT – ARTE FRANCE CINEMA – LUPA FILM
『彼女のいない部屋』彼女の旋律、まだ知らない懐かしさ
記憶を追い超す
「狂わないために、狂気を通る」(ヴィッキー・クリープス)*
マチュー・アマルリックの映画では、音声を画面に先行させる手法が多用される。たとえば誰もいない寝室の乱れたベッドシーツから始まる『青の寝室』では、男女の喘ぎ声が画面外の音声として被さっていた。この部屋の記憶、そして部屋のオブジェが記憶している音声が、どこからともなく聞こえ漏れてくる。侵入者としての音声。そしてこの音声には霊媒的な力が宿っている。
『彼女のいない部屋』では、クラリスがピアノの鍵盤に鍵を落としたときに響く突拍子のない衝撃音が、映画の重要なトーンになっている。クラリスは娘がピアノの練習をしているときの音声をテープに録音している。彼女は録音テープを聞きながら年代物のアメリカ車を運転する。娘のぎこちないピアノの弾きぶりにダメ出しをするクラリス。演奏は時に中断される。それは中断されてしまった人生を残酷に示している。そしてありえたかもしれない未来の娘による演奏、ピアノの旋律が奏でられる。
『彼女のいない部屋』© 2021 - LES FILMS DU POISSON – GAUMONT – ARTE FRANCE CINEMA – LUPA FILM
クラリスが想像するありえたかもしれない平行世界。夫マルクとテレパシーを交わすシーンでは、彼女の鼻歌がどこからともなく聞こえ漏れてくる。ここにはいない夫に向けてテレパシーを送るクラリスは狂っているのかもしれない。しかし同時に強く輝いてもいる。クラリスは正気を保つために、狂った世界を生きている。現実を超えた現実を求めている。そして疲弊してしまう。ふとした瞬間にクラリスは弱音を漏らす。「春を待つことに疲れた」。
『彼女のいない部屋』にはヒロインによる喪失との向き合い方が描かれている。途方に暮れてしまうような悲観性も、何もかもを忘れてしまうような楽天性も、思わず他人を責めてしまうような攻撃性も、人生を投げてしまいたくなるような自傷性や弱音も、その何もかもをヒロインは隠さない。しかしクラリスは勇敢だ。彼女は海をも飲み込むような大きさで、すべてを飲み込んでいく。大きな傷口をあえて広げながら、荒々しく飲み込んでいく。正気を保つこと、彼女の旋律を奏でるために。この映画はすべての感情に開かれている。
* 『彼女のいない部屋』プレス資料
映画批評。「レオス・カラックス 映画を彷徨うひと」、ユリイカ「ウェス・アンダーソン特集」、リアルサウンド、装苑、otocoto、松本俊夫特集パンフレット等に論評を寄稿。
『彼女のいない部屋』を今すぐ予約する↓
『彼女のいない部屋』
8月26日(金)よりBunkamuraル・シネマ他全国順次公開
配給:ムヴィオラ
© 2021 - LES FILMS DU POISSON – GAUMONT – ARTE FRANCE CINEMA – LUPA FILM
(c)Charles Paulicevich - 2021 LES FILMS DU POISSON - GAUMONT - ARTE FRANCE CINEMA - LUPA FILM