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批評する/批評されるという構造
筆者は高級レストランに免疫がない。うっかりそんな場所に足を踏み入れてしまったら、尋常じゃないくらいに舞い上がってしまう。それがフランス料理となれば、なおさらだ。滅多に口にすることのない高級食材が、聞いたことのない難しそうな調理方法で、華やかなデコレーションの皿に盛り付けられて運ばれる。ウェイターの丁寧な説明なんか、さっぱり耳に入ってこない。シェフが挨拶に来ようもんなら、たとえ味が好みではなかったとしても、「庶民たる自分の舌がおかしいのだ」と自分に言い聞かせ、「あ、とても美味しかったです」と中身のない賛辞を送り続けるだろう。自分、わりと簡単に権威にひれ伏すタイプです。
確かに、エミー賞にもノミネートされた人気ドキュメンタリー「シェフのテーブル」(Netflixでも観れます)なんかを観ていたら、「一流シェフが腕によりをかけて創り上げた料理を、一度でいいから食べてみたい」という気持ちはムクムクと湧き上がってくる。絶品メニューに舌鼓を打ちたい、という欲求も生まれてくる。だが、事態はそう簡単ではない。高級レストランが纏っているある種の権威性に、我々は対峙しなくてはならない。シェフが綿密に計算した「オードブル〜メイン料理〜デザート」までの物語を咀嚼し、その意図を掴むこと。それはもはや批評的な行為である。
『ザ・メニュー』予告
ひょっとしたらコレって、現代アートにも近似した感覚なのかもしれない。東京藝術大学大学名誉教授の秋元雄史氏は、その著作『アート思考』のなかで下記のように解説している。
「現代社会の課題に対して、何らかの批評性を持ち、また、美術史の文脈の中で、なにがしかの美的な解釈を行い、社会に意味を提供し、新しい価値をつくり出すこと」
全てのアートやカルチャーは、批評する/批評されるという構造に回収される。しかしながら“食”にもこの批評性が適用されてしまうと、なかなかにタチが悪い。それを批評できるのは、単純に金銭面において優位性のある者しかいなくなるからだ。だがその批評者は、本当に批評に足る者なのだろうか?単にお金を持っているだけの経済的強者だけではないのだろうか?
超富裕層の独占的支配による、価値観の歪み。人々の虚栄心や自尊心。それを非常に理知的に、強烈な皮肉を交えて描いた作品が本作『ザ・メニュー』(22)である。